片目がコンプレックス?伊達政宗

  • 2018.01.21 Sunday
  • 10:36

片目がコンプレックス?伊達政宗

 

 

トウ先生、戦国武将は歴史ファンの心を引き付けてやまないですが、なかでも伊達政宗は人気がありますね。

 

伊達政宗といえば、右眼を眼帯で覆った勇猛果敢な武将として知られていますね。しかしその一生を見ると、かなりばくち的な行動を取ることが多かったようですよ。
豊臣秀吉が小田原を攻めた時、秀吉の求めに対して、政宗は最後まで情勢を伺い洞ヶ峠を決め込んでいました。結局は秀吉側に参陣しましたが、のちに秀吉に遅参を責められ箱根に幽閉されます。やがて秀吉に謁見が許されると、切腹を覚悟の死装束で臨んだそうです。その後も隣国の騒乱を陰で煽動して、秀吉に睨まれたり、関ケ原の合戦時のどさくさに南部領内の一揆を煽動して家康の不興を買ったりしています。

 

 

達家の当主でありながら、随分危ない橋を渡っていましたね。
 

それだけ野心の強い人物であったということなのでしょうね。この野心の強さというのは、幼少時から彼が感じていたコンプレックスの裏返し的行動だったのではないかと思われます。彼のコンプレックスの一つは母の愛の薄さであり、一つは彼の右目です。
1590年、伊達家当主となっていた政宗は、実母保春院に毒を盛られ、危うく命を落としそうになります。小田原征伐にすぐに参戦しなかった政宗が秀吉の怒りを買ったため、家の安泰を考えた保春院が政宗を亡き者にし、弟の小次郎を後釜に据えようとしたのです。

 

 

くらお家大事としても、母が実の子を殺そうというのは尋常ではありません。

 

おそらく政宗に対しては、幼少時より母の愛が薄かったのではないかと思われます。 政宗は幼児期に角膜感染症で右眼を失明しています。古来の民族では片目は片足とともに神の姿とされ、畏敬されるべきものでしたが、彼自身は片目を忌み、話題がこれに及ぶことを嫌ったといいます。彼は後に自分の木像を作るにあたって、両目をきちんと揃えるようにと注文をつけていました。

 

 

宗は、片目であることをそんなにもコンプレックスに感じていたのですね。

 

彼は、幼少時より抱いていたこれらのコンプレックスを飛躍へのバネとしていたことでしょう。彼がもし、非常に恵まれた環境で育っていたら、果たして奥州の覇者となりえたか疑問ですね。

 

(原作:医学博士  武藤政春)

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