作者は「神目」を「睨み」あるいは「見張り」と考えていますが、
そう考えると連想されるのは、「王の目」「王の耳」です。
これは、紀元前5世紀頃に、イラン高原を支配したペルシャ帝国が
地方官(サトラップ)を監視する為に「王の目」「王の耳」と呼ばれる監督官を地方に派遣していた制度です。
『世界史の窓』より引用
古代日本に存在した「神目」は、
ペルシャ帝国における「王の目」「王の耳」のようなものだったのでしょう。
古代、ペルシャ人は日本にも来ていたようですので、
そもそも「神目」の制度や概念というものは、
ペルシャ人から教わって導入したものだったのかも知れません。
「神目」の読みとしては、
「カンノメ」「コウメ」あるいは「カンメ」と読まれますが、
「コウメ」「カンメ」と言うとついつい
「コウベ⇒神戸」「カンベ⇒神戸」という語呂が口をついて出てきます。
例えば、
余戸(アマリベ=愛媛県・宮城県など)
余目(アマルメ=山形県)
余部(アマルベ=兵庫県)
など、日本語において「メ」と「ベ」は転化し易いものです。
この地名は、
古代の律令にて、当時の行政単位として家々を50戸ごとに「里」を作り、
それに満たない家を余りとして記録していたことに由来します。
それが、当時の人々のやり取りの中で訛りも相まって、
口伝も漢字も変化していったものと推察できます。
日本には「神戸」という地名が30ヶ所以上、存在します。
その内の大部分は神社の封戸であったが故に
「神戸」と名付けられたのだろうと思われます。
しかし中には、
「神目」から「神戸」に転化したものもあるかも知れません。
そこで駅名にも使われている以下の5ヶ所の「神戸」について
「神目」の可能性がないかどうか考えて見ました。
?神戸 (コウベ=東海道線) ⇒ 須磨の関が近くにある
?伊賀神戸 (イガカンベ=近鉄) ⇒ 島ヶ原関が近くにある
?神戸 (ゴウド=わたらせ渓谷) ⇒ 五料関が近くにある
?広神戸 (ヒロゴウド=養老線)
?北神戸 (キタゴウド=養老線) ⇒ 不破関が近くにある
関所というのは古来「睨み」を効かせたり「見張る」為の場所、
即ち「神目」の場所です。
したがって上記5ヶ所の「神戸」は、
元来は「神目」だった可能性があるのではないかと感じました。
あなたも、ご興味がありましたら、
『百目鬼の謎』〜目のつく地名の古代史〜 (藤井耕一郎・草思社文庫)
ぜひご一読ください。
今回、3回シリーズでお伝えした『目のつく地名』というキーワードから、
日本神話、世界史、そして現在の日本各地の地名の由来など
時空を超えて、いろんな角度からそのつながりに想いを馳せることができ、
古代の人々が見ていた様々な風景を少し味わえたような気持ちになりました。
(原文:医学博士 武藤政春)
作者は、
弥生時代(紀元前10世紀から紀元後3世紀中頃)か古墳時代(〜7世紀)に、
吉備国(岡山県と広島県東部)が、出雲国(島根県東部)を攻めて
支配下においたと考えているようです。
そして、その勢いに乗って吉備国は、
九州や近畿、東日本までも征服して行ったのではないかと考えているようです。
上記の仮説に対して小生は、
前半部分は同感に思いますが、後半部分は首肯しかねます。
弥生時代から古墳時代にかけて、日本は、
筑紫国(福岡)、出雲国(島根)、吉備国(岡山、広島)、大和国(奈良)、
毛野国(群馬、栃木)、越国(福井、石川、富山、新潟、山形)
などの有力な地方勢力が勃興して乱立し、時には相争っていたと思われます。
これら有力地方勢力の中から、吉備国が一歩抜け出して他国を支配下に置き、
日本を緩やかに統一して行ったのではないかと作者は考えているようです。
しかし小生は、日本を緩やかに統一し首長国連邦のように纏めて行ったのは、
吉備国ではなく大和国なのではないかと思っています。
そう考える理由は2つあります。
1つは、後年、吉備国は4つに分割されましたが、
異議を唱えず大人しく受け入れたこと。
もう1つは、桃太郎伝説の存在です。
7世紀以降、日本をほぼ統一したヤマト朝廷により、
律令制度に基づく国郡里制が定められて行きました。
その際、大きな国は幾つかに分割されました。
筑紫国は、筑前と筑後に、
毛野国は、上野と下野に、
越国は、越前、越中、越後に。
そして吉備国は何と、
備前、備中、備後、美作の4つに分割されてしまいました。
EC-Education.japanより引用
もしもヤマト朝廷の母体が吉備国だったとしたら、
故郷の地をこんなにもズタズタに切り裂くようなことはしないはずだと思います。
吉備国の歴史を今に伝える吉備津神社社記に
「孝霊天皇の命令により朝廷から派遣された皇子・吉備津彦命は、
鬼ノ城を根城にして暴れ回っていた温羅(ウラ)を退治して、
この地に平安をもたらした」
という記載が残されているようです。
これは桃太郎伝説の元になった話ですが、
ヤマト朝廷によって、吉備国が平定された事実を記録したものと
読み取ることもできます。
吉備国が日本を平定したのでなければ、
なぜ吉備国に特徴的であったはずの「神目」などが
全国的に分布しているのだということになりますが、
良いものは他国の物でも取り入れようと、
ヤマト朝廷が仕組みの中に取り込んで行ったものだと思います。
Wikipediaより引用
(原文:医学博士 武藤政春)
『百目鬼の謎』(藤井耕一郎・草思社文庫)
私と同じ『見る』ことを仕事にしている友人から「面白いよ」と薦められ、 『百目鬼の謎』〜目のつく地名の古代史〜を、読んでみましたので、 感想と私の考察を少々。
奈良県明日香村で高松塚古墳の壁画が発見されておよそ五十年。その後も稲荷山古墳の鉄剣銘文や荒神谷遺跡の膨大な銅剣など“百年に一度の大発見”が相次いだにもかかわらず、古代国家の起源は今なお真相が明らかにされていない。本書は「目」のつく地名に着目し、初めて列島が統一された時代に特異な役割を果たした呪術的な「にらみ」を解明。邪馬台国の成立と、ヤマト政権につながる地理的な情勢を重ね合わせ、政権の中心となった勢力を浮き彫りにする。(amazonより引用) |
古事記などに出て来る神話の「国譲り」。
この本の作者は、
天津神(アマツカミ)は、吉備国(岡山県と広島県東部)のことで、
国津神(クニツカミ)は、出雲国(島根県東部)のことと考え、
国譲り神話とは、この二つの地域が争い、
吉備国が、出雲国を支配下に置いたものだと考えているようです。
この仮説に小生は「なるほど、ごもっとも」と思いました。
紀元1世紀頃は、日本は各地に地方勢力が勃興し相争っていた頃。
山陰地方では出雲国が、因幡、伯耆、出雲、石見の諸地方を支配下に治め、
山陽地方では吉備国が、播磨、備前、備中、美作、備後、安芸などを
支配下に置いていたのだと思います。
そんな地方勢力の内、圧倒的に優勢な勢力を誇っていたのが 吉備国だったと思います。
理由は、以下の諸要素により他国を凌駕する強国だったと思うからです。
?肥沃な土地のお陰で、豊かな農作物に恵まれていた。
?瀬戸内の海上交通の要衝にあり交易に適していた。
?海産物に恵まれており、また製塩技術を開発していた。
?たたら製鉄技術を開発し、鉄製の武器を作成していた。
以上により吉備国は、 恐らく簡単に出雲国を屈服させてしまったのかもしれません。
出雲国の荒神谷遺跡からは、
大量の銅剣、銅矛、銅鐸が発見されています。
Wikipediaより引用
これなど、
無条件降伏させられた出雲国が武装解除をさせられた証拠のような気がします。
(原文:医学博士 武藤政春)
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『長恨歌』を知っていますか?白楽天が唐の玄宗皇帝と楊貴妃の運命を悲恋物語として漢詩に謳いあげたものです。『長恨歌』中の楊貴妃の言葉「天にあっては比翼の鳥となり、地にあっては連理の枝となって〜」という一節があります。私はここで網膜剥離という眼の病気を連想します。
『長恨歌』は『源氏物語』にも影響を与えた長篇の漢詩ですね。「比翼の鳥、連理の枝」は切っても切れない仲の例えとして使われるかと思いますが。
比翼の鳥というのは、胴体が二つで翼が二つしかなく、二鳥共翼で飛ぶと考えられていた空想の動物です。連理の枝というのは、根は二つで幹は合体し一つとなった樹のことです。
網膜剥離は、網膜が色素上皮・脈絡膜と剥離してしまう病気ですが、まさにこれは切っても切れない関係にある組織なのです。
色素上皮・脈絡膜というのは聞きなれない言葉ですが、どのような役割を持つのですか?
脈絡膜というのは、血管が網目のように張り巡らされている組織で、常に大量の血液が流れていて、網膜を支える重要な役割を二つ持っています。
一つは車でいうとラジエーター(冷却装置)のような役割です。人が目を開けて物を見ると、外界からの光が網膜で焦点を結びます。虫眼鏡で太陽光を集めるように、この部分は熱を持ってしまうのですが、網膜が焦げないように冷却装置の役割を果たすというわけです。
もう一つの役割は、網膜の視細胞への栄養補給です。眼の網膜は日中の十数時間に及ぶ連続使用に耐えていくため、視細胞の旺盛な新陳代謝が必要です。色素上皮・脈絡膜が、その速やかな新陳代謝を手助けしています。
網膜から脈絡膜・色素上皮が離れてしまったら、視細胞は活躍することが出来ませんね。
まさに比翼の鳥というべき存在です。網膜剥離はかつて不治の病でしたが、1921年ローザンヌ大学のゴナン教授が手術方法を発表し、その後も彼の手術方法に様々な改良が施された結果、現在は70〜90%位は治癒が期待できるようになっています。
とはいえ、やはり早期発見が大切です。視野の一部が暗くなってきたりしたら、速やかに眼科医のもとにかけつけてほしいですね(かけつけるといっても本当にかけたりしないで、できるだけ静かに)。
(原作:医学博士 武藤政春)
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最近はおしゃれなデザインの子ども用のメガネが増えましたね。大人のような流行のデザインを探している女の子とお母さんを見かけましたよ。
小学校の高学年くらいから近視のお子さんも増えてきますね。メガネをかけずに頑張ってしまう子もいますが、黒板の字が見えないまま頑張っていると、特に理科系の教科の成績が落ちやすいというデータもあります。見かけを考えて躊躇して、知らず知らず知的発育を妨げてしまうのは好ましくないでしょう。魅力的なデザインのメガネが増えて、前向きにメガネを装用してもらえるのはいいことですね。
小学生の中〜高学年頃は、精神的にもデリケートな時期ですね。親御さんも気を遣うことが多いでしょう。
親子で多少意見がぶつかり合うくらいは成長の過程かもしれませんが、ただ、小児によく見られる心因性視力低下のような心配なケースもあります。精神的ストレスが鬱々と内向し、それを上手に発散できない小児の場合、視力が低下してしまうものを言います。この場合、眼底など眼の中をいくら検査しても病気は見当たりませんが、視野検査で心因性のものに特徴的なデータが検出されるようです。
ストレスに上手く対応できない子どもならではの症状でしょうか。
ストレスがあったとしても、大多数の子ども達は、それなりに上手に発散させています。ストレスの発散が苦手な子ども達は家庭や学校で乱暴な態度をとったりしてストレスを発散させたりする場合もあります。そして残る極く少数が、ストレスを全く発散させることができない子ども達です。自分一人の胸の内にストレスを抱え込み、やがて「眼が見えなくなる」という形で心の病が外に顕れてくるようになります。
かわいそうなことですね。そのような心因性の視力低下は治りますか。
原因となるストレスが解消されれば、程なく良好な視力を回復できます。「眼は心の窓」といいますが、単に感情が表れるというだけでなく、視力の低下で心の病いを訴えることもあるということですね。子ども達の眼に対して、周りの大人達は充分な注意を払っていたいものです。
(原作:医学博士 武藤政春)
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先日視力測定を受けたら、近視の度が進んでしまったようです。そういえばムトウ先生、動物の目に近視や遠視はあるのでしょうか?
遠視に関していえば、サメやエイなどの軟骨魚類、哺乳類ではカンガルーやモグラ、ネズミ、コウモリなどが強度の遠視の目を持っています。こうした動物に共通しているのは、いずれも皆視力があまりよくないことです。
そもそも遠視の目は、目の屈折力に対して眼軸の長さが短い目であり、ある意味では発育不良の目とも言えますね。
そうなのですね。人間も、生まれたばかりの頃は遠視なのだと聞いたことがあります。これもつまり目が未発達ということなのでしょうか。
人間は成長して視力も発達するに従って眼軸長が長くなり、およそ7〜8歳頃に正視になることが多いと考えられています。そこで生まれつき強い遠視の場合には、メガネなどで早くから矯正し、視力を良好に発達させれば正視化が早くなります。つまり、よく見える状態にしておけば、眼球が適度に発育して正視になっていくわけです。
しかしサメやエイ、カンガルーやモグラなどの強度の遠視の動物で、ほとんど視力がないものは、物をはっきり見ることがないので、正視化を促す眼球の発育も起こりません。ですから、発育不良ともいえる強度遠視のままにとどまっていると考えられます。
近視の方はどうですか?近視の動物もいるのでしょうか。
野生の状態では、近視の動物はそれほど多くありません。硬骨魚類は一般的に近視ですね。魚は薄暗い水中で活動していますから、遠方を見ようと思ってもなかなか見えません。自分の近くしか見えない環境で生活しているので、近くがよく見える近視の方が好都合といえるでしょう。
ウサギやブタなどは、野生状態ではほぼ正視ですが、家畜として飼われていると、近視であるものが多いといわれています。狭い囲いの中で生活していると、自然と近くばかりを見ることが多くなり、これが近視の原因になると考えられています。
薄暗い所で生活している魚や、近くばかりを見ている家畜が近視なのですね。人間も同じでしょうか。薄暗い所で近くばかりを見ているような生活には気を付けなくてはなりませんね。
(原作:医学博士 武藤政春)
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ムトウ先生、動物公園でウサギを見てきたのですが、人が後ろから近づいてもすぐに逃げてしまいますね。後ろに眼があるかのようです。
ウサギはほぼ360度の視界を持っています。つまり自分の周り全周が常に見えているといい、敵に追いかけられたときには真後ろの敵を見ながら逃げると言います。まさに背中に眼があるようなものですね。
ウサギだけでなく、ウマ、リスなども360度の視界を持っています。ウマの章でもお話ししましたが、競馬の場合は却って広く見えていると、観客席の騒ぎなどで気が散ってしまい不都合です。そのため、競馬の際には前方だけが見えるような遮蔽板をつけて走ります。
360度見えるというのはすごいことですね。それは眼の位置が関係するのでしょうか。
ヒトの眼は顔の前面に並んでおり、両眼の視線の方向はほぼ平行です。これに対して、ウサギの眼は顔の側面についており、右眼と左眼の視線の方向はほぼ背中合わせに近いものです。しかしながら、両眼視している部分は狭いので、立体感や距離感は悪いはずです。
一方、肉食動物であるライオン、クマ、タカなどの肉食動物は、両眼軸のなす角が小さく、視界は狭くなっています。
草食動物と肉食動物では、見え方や視界が異なるのですか。
肉食動物は視界が狭いのに対して、草食動物は広い視界を持っています。肉食動物は他の動物を見つけて捕らえなければならず、そのためには自分の正面がよりはっきりと見える必要があります。一方、草食動物は肉食動物から逃げなければならず、そのためにはどこから敵が来てもすぐわかる必要があります。
動物たちの視界の広さが、必要性に非常に適応した形になっているとは驚きです。
そういえば、動物園で人気の高いパンダは、数千年前までは中国大陸においてあたかも百獣の王のようにふるまっていた肉食動物でした。それがトラに駆逐され、次第に高山へと追いやられ、食用になる動物が十分に得られなくなったためにやむなくササの葉などを食べるようになりました。パンダが肉食動物であった名残りはその眼に残っています。ササの葉ばかり食べていても、その眼は草食動物の眼ではなく、両眼軸のなす角が小さく視野が狭い肉食動物の眼をしています。
(原作:医学博士 武藤政春)
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ムトウ先生、これまでに数多くの動物の眼についてお話しいただきましたが、私たち人間の眼についてはどうでしょう。他の動物にはない特徴はあるのでしょうか。
視覚のある意味での鋭敏さという点では、ヒトの眼はタカ、ウ、ツバメなどの鳥類、カメレオンなどに劣ります。ただヒトの眼には他の動物にはない大きな特徴を2つ持っています。まずひとつは共同性の眼球運動がすぐれており、特に“より目”が出来ることです。もうひとつは視覚による想像力が豊かなことです。
より目と想像力…それはどのように役に立つのでしょうか。
より目が出来るということは、遠方だけでなく近方も両眼視して立体的に見ることが出来るということを意味しています。視覚による想像力が豊かであるということは、たとえばマンガや絵画を見て、あたかも実物を見ているのと同様に状況を把握できるということであり、人類が文字を生み出すことができた所以です。
この2つの眼の特性が、人類が他の動物を凌駕し地球を支配するようになった大きな要因となっています。
力が強いとはいえない人類が地球を支配するようになったのは、他の動物以上の知恵が与えられていたから、とも言われますね。
決してそれだけではなく、ヒトだけが持つ解剖学的な特性と眼の特性によるところが大きかったのです。少し説明していきましょう。
解剖学的にヒトが他の哺乳動物と異なる点は、直立歩行、オトガイ(下顎)の発達、表情筋があることの3点と言われています。
直立歩行によって上肢(手)を自由に使うことが出来るようになり、より目ができることで手先の仕事を容易になり、火や道具の発明や使用を可能にしていったはずです。また、オトガイの発達により複雑な発声が可能になり集団の中に言葉が生まれました。そして視覚による想像力が豊かなことが更に文字を生み出すことになり、コミュニケーション手段を一層発達させることになったのです。
知恵だけではなく、ヒトだけが持つ解剖学的および眼の特性が生み出した道具や言語というものが、他の動物を凌駕していく大きな武器になったのですね。
(原作:医学博士 武藤政春)
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前回は伝染性の眼病トラコーマが世界中に広がっていった歴史についてお話しいただきました。その恐ろしいトラコーマが、日本に伝わったのはいつなのでしょうか。
チンギス・ハンの大遠征によって、お隣の中国にはかなり古くからトラコーマがありました。しかし日本には殆ど伝わっていなかったようです。これは日本が島国であったことが幸いしていたようですね。
日本にトラコーマが蔓延するようになるのは、御多分にもれず戦争をきっかけとしてでした。明治27年に起こった日清戦争で、日本の兵士が大挙して中国大陸に渡りましたが、この兵士達がかの地でトラコーマをもらい、これを持ち帰ってから、日本にも猛烈な勢いで伝染するようになったのです。
トラコーマは明治時代に伝わったのですか。やはり日本でも戦争が契機になったのですね。
トラコーマがどれだけ慌しく日本に渡来したのかというのは、その名前をみてもわかります。病気の名前というのは、日本語でも名付けられているのが普通ですが、トラコーマだけは余りにも急速に日本中に蔓延したために、日本語の病名を名付ける暇がなく、唯ラテン語のTrachomaを片仮名にしただけになっています。
Trachomaというのは、ラテン語のtrachys(ざらざらな)+oma(できもの)という意味です。トラコーマは、まぶたの裏の結膜に「つぶつぶ」ができて、眼がゴロゴロと痛むのが特徴であるが、そんな所からこのような名前が名付けられたのでしょう。
恐ろしい眼病のトラコーマですが、現在の日本ではその名を聞くこともありません。
日本において、実際にトラコーマが猛威をふるった期間はわずか50年くらいでした。戦後の抗生物質の開発、公衆衛生の充実によって、日本においてはほぼ撲滅された病気です。
日本人にとって、トラコーマとの戦いはまさに一陣の風のようなものであったわけですが、その印象は今なお強烈なのです。
(原作:医学博士 武藤政春)
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すっかり花粉症にやられてしまって目が痒いです。この時期は辛いですね。
私のところにみえる患者さんたちも随分辛そうですね。しかし正直な所、花粉症の患者さんを相手にしている分には気が楽なのですよ。間違っても失明に繋がる病気ではないからです。少し以前の眼科医が、失明の恐怖に曝された患者さんと共に、トラコーマと戦っていたことを考えれば、ずっといいですよ。
トラコーマについてはあまり知らないのですが、どのような眼の病気なのでしょうか。
トラコーマはトラコーマ病原菌による伝染性の眼の病気で、非常に強い結膜炎を起こし、やがて角膜にも濁りを生ずると失明することもある病気です。戦前の日本では失明原因の第一位を占め、大いに猛威を振るった疾患です。
恐ろしい病気ですね。トラコーマはどのような由来の伝染病なのですか。
トラコーマは元々エジプトやメソポタミア地方の風土病でした。これが8世紀以降、イスラム帝国の成立および、チンギス・ハンの大遠征で西はスペイン・ポルトガル、東は中国まで広がっていったのです。15世紀から16世紀にかけては、スペイン人やポルトガル人の探検家たちによって、新大陸へとトラコーマが伝播されていきました。
そして19世紀、ナポレオンのエジプト遠征により多くの兵士がトラコーマにかかり、彼らの帰国によりイギリス・フランスにもトラコーマが蔓延することになったのです。
トラコーマの伝播には戦争が大きく絡んでいるようですね。
トラコーマにはmilitary ophthlmia(軍隊眼炎)という別名がありますが、まさに言い得て妙ですね。ナポレオンの戦争時、イギリス軍のある大隊では、兵士700人のうち636人がトラコーマにかかり、そのうち両眼失明した者50人、片眼失明した者40人に及んだといわれ、その伝染力のすごさがうかがえます。
本当に恐ろしいことですね…。そのようなトラコーマが日本に伝わった時のことを、次回ぜひお聞かせください。
(原作:医学博士 武藤政春)
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ムトウ先生、わたしは少々出目のようなのですが、目にとって良くないでしょうか。
世の中には、出目の人、奥目の人、そしてちょうどいい人とさまざまいますが、特に悩んだり、気に病む必要はありませんよ。出目の利点は突出している分だけ視野が広くなることであり、奥目のいい点は奥に引っ込んでいる分だけケガをしにくいことです。出目の人は、自分は他の人より広々と見えているのだと思えばいいでしょう。
ヒトはもともとサルと同じように奥目の動物のようですが、脳が発達するにしたがって、脳の容積が増え、その分だけ眼球が前に押し出されて奥目であることが目立たなくなったようです。
動物の場合は、奥目と出目、どちらが多いのでしょうか。
一般的に草食動物はひどい出目、肉食動物は軽い出目、そしてヒトとサルの霊長類だけが奥目のようです。これはそれぞれの目の役割からすると、非常に理にかなっています。
ウサギやウマなどの草食動物は、肉食動物から身を守るために、どの方向から敵が来てもすぐ発見し、逃げなければなりません。草食動物の目は顔の側面について出目なので、ほぼ360度の広い視野を得ています。
肉食動物も出目ということですが、肉食動物にとっての利点は何ですか?
獲物を追いかける側の肉食動物は、自分の前方正面がよりよく見えること、しかもある程度視野が広いことが必要です。ですから、目は顔の前面についていますが、両目は軽い出目で少し斜視のように完全に正面でなくて外を向いています。一般的に動物にとっては、より広い視野を得ることが目の大きな役割です。出目であることは大変好都合なのです。
ヒトは奥目の動物ということですが、その方がヒトにとって好都合なのでしょうか。
私たち霊長類が他の動物と大いに違う点は、上肢(手)が自由に使えることです。手先の仕事をするには手元がよく見えなければなりません。ヒトの目は顔の前面に並んでついていて、手元や正面を両方の目で見るようになっています。広い視野を得ることは目の配置上困難ですから、今さら出目である必要もなく、ケガをしにくい奥目になっているのかもしれませんね。
(原作:医学博士 武藤政春)
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ムトウ先生、動物も白内障などの眼病になったりするのでしょうか?
動物の目もヒトと同じようにありとあらゆる眼病が現れますよ。結膜炎、角膜炎、白内障、緑内障、眼底疾患、各種の先天異常などが代表的なものです。あまり関心が払われないものとして、近視などの屈折異常、斜視、弱視、眼精疲労などがあります。
眼の病気に関してはヒトとあまり変わらないのですね。
そうですね。ただ、動物の目の病気に関しては、ヒトと異なる点が二つあります。一つは喧嘩によるケガが多いことです。もう一つは、病院に来るのが決して患者自身の意志ではなく、飼い主の意向によるということです。ヒトの場合は、痛いとか見にくいとかの自覚症状があれば自ら医者にかかりますが、動物は自覚症状を訴えることはありません。
確かに動物の場合は、外から見てわかる異常がなければ気が付かないかもしれません。
目やにが出て充血する結膜炎や角膜炎、強い充血が起こって瞳が混濁する前部葡萄膜炎、瞳が白くなってくる白内障などが、どうしても目立つようになります。白内障などは、人間ばかりでなく動物の目でもポピュラーな疾患となっていて、手術も盛んに行われています。
逆に眼底疾患や緑内障は視力障害が相当進行しないと飼い主に気付かれません。緑内障で医者に連れられてきたときは、ほとんど失明している場合が多く、動物眼で行われる緑内障手術は、視機能の回復や維持というより、痛みをやわらげたり美容的な意味(眼球の突出を防ぐ)で行われるようです。
動物の眼も人間と同じように手術による治療がされているのですね。
驚くべきことに、動物に対する美容整形手術なども結構盛んに行われているようです。血統書付きの高級ペットほど盛んなようですが、もっと自分のペットを個性的にしようというのでしょうか。すべて飼い主の一存で手術が行われているようです。果たして手術される動物自身は喜んでいるのでしょうか、一度聞いてみたいものです。
(原作:医学博士 武藤政春)
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先日久々に『二十四の瞳』を読み返しました。初めて手に取ったのは随分昔のことになりますが、感動が色褪せることのない作品ですね。
昭和三年、小豆島の小学校の分教場に赴任してきた大石先生と一年生十二人の教え子たちとの物語でしたね。昭和二十七年に発表された二年後に映画化されて空前の大ヒットとなり、海外にも翻訳、紹介されたと聞いています。
英語訳された『二十四の瞳』の題名については、なかなか面白い話があります。今日はその話をしましょう。
英語にそのまま訳すと“Twenty-four pupils”などとなりますでしょうか?
“pupil”には二つの意味があります。一つは「生徒・児童」の意味、もう一つは「瞳・瞳孔」の意味です。もしも先の題名だとすると、「二十四の瞳」か「二十四人の生徒」の意味かはっきり分かりませんね。
以前、丸善の「本の図書館」館長に問い合わせ、教えていただいたところ、“Twenty-four eyes”という題名で、昭和三十二年に英訳出版されたということでした。「二十四の瞳」でなく「二十四の目」では多少文学の薫りが薄れるかもしれませんが、紛らわしいpupilという単語を使うのは避けたようです。
「二十四の目」ですか…確かに随分趣の違う題名になりますね。Pupilにはなぜ「瞳」と「生徒」という紛らわしい二つの意味があるのでしょう。
Pupilの語源は、ラテン語のpupillaです。pupillaという単語は、pupa(少女)、pupus(少年)の指小語(「小さい」を表す接辞のついた単語)で、もともと小さな子どもという意味です。それがなぜ瞳という意味にも使われるようになったかというと、眺める人の小さな像が瞳孔に映って見え、まるでそこに小さな子がいるように見えるからのようです。
翻って見れば、中国語である「瞳」は「目の童」と書きますし、日本語の「ひとみ」は「人見」のことです。発想は洋の東西を問わず同じであるようですね。
(原作:医学博士 武藤政春)
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前回はもし動物が座頭になったら、とうテーマで魚類、鳥類についてお話をいただきました。そして次は哺乳類の場合についてですね。
哺乳類はサルやヒトなどを除いて一般的に視覚よりも聴覚や臭覚のほうが鋭敏です。イヌやネコなどは、臭覚や聴覚が鋭いので、座頭になったとしても、何とかエサを見つけたり、敵から逃れることが可能でしょう。
ゾウも、もともと視覚はあまり鋭敏ではなく、頼りにしているのは鼻なのです。ゾウは、5キロメートル先の臭いを感じるという大変な鼻の持ち主です。
ゾウの鼻は大きいばかりでなく、大変優れた感覚器官なのですね。
モグラやクジラなども座頭になったとしても生存するのに大きな影響はないと考えられます。もともと視覚を頼りに生きているわけではないからです。モグラは臭覚を、クジラは聴覚を頼りにしていて、視覚はほとんどありません。
視・聴・臭の感覚の重要度が、それぞれ異なっていますが、哺乳類は意外に視覚に頼っていない動物が多く、座頭になっても生きていける場合が多いようです。
近所に失明に近い状態のイヌがいますが、時々柱に頭をぶつけているそうです。優れた臭覚でエサのありかはわかっても、障害物の所在は判断できないのでしょうね。
そうですね。しかし座頭になっても障害物を巧みによけて運動できる器用な動物もいます。コウモリは自ら超音波を発信し、障害物やエサなどに当ってはね返ってくる反射音波を聞きながら運動しています。イルカも同様の超音波を発信して運動しています。
また、魚は体の両側にある側線器によって、障害物をよけて運動することができます。この側線器は、わずかな水の振動によって水の流れの方向や速さ、水深、水中の物体の存在と距離などを測定感覚できるようになっています。魚は目が見えなくても障害物の存在を知ることができるのです。
コウモリやイルカ、魚たちは、仕込み杖に頼って歩く座頭市よりも感覚という点では一枚上手のようですね!
(原作:医学博士 武藤政春)
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ムトウ先生、ザトウクジラというクジラがいますが、「座頭」と言うからには目が見えていないということなのでしょうか。
「座頭」は江戸期における盲人の階級の一つですね。一昔前には、『座頭市物語』という映画が一世を風靡したこともあります。
ザトウクジラはヒゲクジラの一種ですが、遊泳速度が遅いので目が見えないと連想され、この名がつけられたそうですよ。もともとクジラはあまり目が働いていませんが、ほかのクジラが俊敏であるのにザトウクジラだけがもたもた動くので、目が不自由であるように考えられたのです。
目が見えていないということではないのですね。座頭市は、目の不自由な主人公が活躍する物語でしたが、もしも動物が座頭になったらどうなるのでしょうか?
まず魚類の場合はどうでしょう。この疑問に答える興味深い事実があります。あるとき漁師が海で盲目のタラを釣り上げたことがありました。腹を切り開いたところ、胃には食物がいっぱいだったそうです。つまりタラは目が見えなくてもエサをあさることができたのです。このことを知った人が実験を行った結果、魚は視覚よりも臭覚を使ってエサを捕らえることがわかりました。
両生類や爬虫類も臭覚が鋭いので、座頭になったとしても何とか生き延びられるかもしれません。しかし、トカゲやカメレオンなどは、もっぱら視覚を頼りに行動していますから、生き残ることは難しいでしょう。
鳥類はどうでしょうか。空を飛ぶためには優れた視力は欠かせないように思いますが。
鳥類は聴覚や臭覚も非常に鋭敏であると考えられていますが、大空を自由に飛び回るためには、鋭い視力が必要ですね。昼行性の鳥が座頭になったら命も危ういでしょう。
鳥は鳥でも夜行性の鳥は別です。あるとき白内障におかされた盲目のフクロウが発見されましたが、そのフクロウは痩せるどころかよく太っていたそうです。その秘密は聴覚にあります。フクロウの聴覚は、昼行性の鳥類の数倍も鋭敏であることが知られています。フクロウもまた、座頭になったとしてもあまり困ることはないと思われます。
優れた聴力が視力を補って余りあるのですね。では次回、哺乳類の場合についてもぜひお話を聞かせてください。
(原作:医学博士 武藤政春)
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以前お話しいただいたメガネの歴史は、たいへん興味深いものでした。メガネ同様、コンタクトレンズも広く使われていますが、コンタクトレンズはいつ頃出来たのでしょうか。
眼鏡レンズには2つの欠点があります。眼鏡レンズが眼球から離れて存在していること、そして眼鏡レンズは顔面に固定され、眼球とともに動くものではないことです。この2つの欠点を解消するためには、レンズを出来る限り眼球に近づけ眼球とともに動くようにする、つまり角膜にコンタクト(接触)させればよいわけです。このような発想は19世紀中頃に生まれ、1920年代頃から実際に作られ使用されるようになりました。
そんなに以前から、コンタクトレンズは作られていたのですか。
ただ、当時のコンタクトレンズの原料はガラスであったため、割れやすく、割れると割面が鋭利になること、そしてそもそも角膜にキズがつきやすいなどの理由で、広く普及するには至りませんでした。
1940年代以降、プラスチック工業が発達し、これはガラスよりも割れにくく、角膜に対する刺激が少ないという長所を持っていました。これをレンズとして用いるようになってから、コンタクトレンズが爆発的に普及するようになったのです。
ハードコンタクトレンズのはじまりですね。爆発的に普及したということは、多くの人が目の見え方に悩んでいたのでしょうね。
特に強度の屈折異常や不同視を持つ人達にとっては、眼鏡では得られない「見やすさ」が与えられたわけです。ただ、一部の人達はその恩恵にあずかれませんでした。ハードレンズというものは、装用時にいくばくか異物感を伴うものです。その痛みに耐えられない人々は、結局「ハードレンズ」の恩恵に浴せなかったのです。
そこで、装用時に痛くないレンズの開発がすすめられました。こうして出来たのがソフトコンタクトレンズです。柔らかく痛くないソフトレンズにもまだ欠点はありますが、近年、ハードレンズ、ソフトレンズ両者の長所を取り入れたレンズも開発されてきています。
理想のコンタクトレンズのために、今もなお技術は進歩を続けているのですね。
(原作:医学博士 武藤政春)
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ムトウ先生、ヤツメウナギは目にいいといいますが、本当なのでしょうか。
患者さんからもそのように尋ねられることがありますね。ヤツメウナギは目のうしろに七対の外鰓孔(がいさいこう)があり、目が八つあるように見えるので、この名がついたのです。目が八つもあるのだから眼病に効くはずだと信じられてきたのでしょう。
ただ、古くからの民間の言い伝えというのは、それ自体は非科学的でも結果としては正しいことが多くあります。目が八つあるからというのではなく、ビタミンAを多量に含んでいるので、鳥目(夜盲症)や目の疲労回復には効果的な食物なのです。
そうなのですね!そういえばヤツメウナギのように、動物の中には名前に「メガネ」や「目」がつくものがいますね。
「メガネ」の名がつく動物としては、メガネザル、メガネウオ、メガネカイマン、メガネグマ…など、色々ありますね。マレー諸島の森林に生息するメガネザルはメガネでもかけているように大きな目をしています。メガネザルは夜行性で昆虫やトカゲなどを食糧としており、暗い所でもよく見えるように大きな目が必要になったのでしょう。
メガネカイマンはアメリカに生息するワニで、メガネウオはオコゼの一種です。これもそれぞれ目が大きいためにその名がつけられました。
目が大きくて目立つ動物が「メガネ」の名を冠するようになったのですか。
目立つ箇所が必ずしも目ではない場合もありますね。メガネグマやメガネオオコウモリは、目の周りに白い輪の模様があるので、この名前がつけられています。また、メガネヘビは台湾コブラのことで、首を広げて敵を威圧するときに首にメガネのような模様があることから、この名がつけられました。
魚には目のつく名前が多いですね。メダカ、メバル、デメキン、ヒラメなどでしょうか。
メダカは目高、メバルは目張、どちらも体の割に目が大きいことから名付けられています。ほか、メカジキは「目梶木」と書かれることが多いようですが、「女舵木」と当て字されることもあります。マカジキ(真梶木)と比べてその身が色白なので、女性的という意味からメスのカジキ、つまりメカジキと名付けられたのではないかと思われます。そうすると「目梶木」という漢字は、実は妥当ではないかもしれませんね。
(原作:医学博士 武藤政春)
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北海道から中部にかけて「目」のつく地名のお話を伺ってきましたが、あとは西日本ですね。
西日本には、歴史や伝説に由来を持つ地名がありますので、見ていきましょう。奈良市に布目川(ぬのめがわ)という川があります。布目の目は部の意味らしく、昔「はたおり」の人が多くいたため、布部即ち服部(服織部)を由来に名付けられたようです。同様に、鹿児島県に勝目(かちめ)という地名がありますが、これは鍛冶部からきているようですね。
また、三重県の観光地、赤目一志峡(あかめいっしきょう)をご存知でしょうか。南北朝の頃活躍した北畠氏の史跡の多い所ですね。ここは有名な赤目四十八滝があります。「役(えん)の小角(おつの)」がこの地で滝に向かって修行している時に、不動明王が牛に乗って出現し、その牛の目が赤かったために赤目の名が付いたという話があります。
「役の小角」は、飛鳥時代の呪術者ですね。現在でも、ゆかりの史跡が多く残っています。
山口県山口市から萩市に抜ける山道の静かな山峡を流れているのが蔵目喜川(ぞうめきがわ)です。この名の由来は「ざわめき」からきたそうです。この辺りは奈良時代から銅山が開かれていました。関ケ原合戦後、毛利氏は藩の財政上この銅山を重視し、大量の人夫を送り込んで採掘に当たらせました。一時は大勢の人が集いざわめき、賑わったといいます。
関ケ原で敗軍となった毛利氏は大幅に減封されたのでしたね。財政上の苦労があり、銅山を積極的に採掘したのでしょうか。
熊本県には、人吉市内から西へ7km、鹿目(かなめ)側の渓谷の奥に鹿目の滝があります。鹿目の部落は相良藩と薩摩藩の重要な国境の一つで、名の由来は「要」のようです。
この鹿目の部落に浄瑠璃にうたわれた河合又五郎の屋敷跡があります。河合又五郎は叔父を殺したために、その息子と息子の義理の兄である荒木又右衛門に、伊賀の上野の鍵屋の辻で敵討ちにあってしまいます。これが、曽我兄弟、赤穂浪士とともに日本三大敵討ちのひとつに数えられる「鍵屋の辻」ですね。河合又五郎は、返り討ちした場合には鹿目の部落に帰るつもりでいたようです。
帰ることは叶わなかったわけですね。全国にある「目」のつく地名を見てきましたが、その由来は実にさまざまでした。地名の成り立ちから、地方の歴史をひもといていくのも一興ですね。
(原作:医学博士 武藤政春)
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先日の北海道や東北の「目」のつく地名のお話はとても興味深いものでした。そういえば、東京にも「目白」「目黒」という「目」のつく地名がありましたね。
どちらも山手線にある駅名ですから、初めて東京に来た人には紛らわしいものでしょうね。この二つの地名の由来は江戸時代にさかのぼります。江戸には五つの不動堂がありました。現在の目黒区下目黒にあった目黒不動、豊島区目白にあった目白不動、ほか、世田谷区に目青不動、台東区に目黄不動、文京区に目赤不動、この五つは五色不動と呼ばれてあつい信仰を受けていました。五つの内現在も地名として残っているのが目白と目黒の二つなのです。
目白・目黒にそのような由来があるとは知りませんでした。
東京近郊にも「目」のつく地名はいくつか見ることが出来ますね。日光市の笹目倉山(ささめくらやま)、東京都と秩父市の境界にある天目山(てんもくざん)、神奈川県の目久尻川(めくじりがわ)、金目川(かなめがわ)などがあります。
笹目倉山はササメ(篠竹)が多い山という意味で、当て字で目の字が使われているだけのようです。天目山というのは元々中国にある山ですが、これに似ているということで名付けられたようです。天目山は昔、日本からも禅僧が修行に出かけた所で、この僧達がこの地の名産品を持ち帰って日本でも作るようになったのが天目茶碗なのです。
それが天目茶碗のルーツなのですね。いにしえの話を紐解くのは面白いものです。
話といえば、中部地方にも面白い伝説のある「目」のつく地名がありますよ。石川県の白山国立公園の中の目附谷川(めつごたにがわ)には次のような話が伝わっています。
「昔、白山が女人禁制だった頃あるうぬぼれの強い美人がいた。女人禁制といえども、自分程の美人なら許されるであろうと、白山の頂上へ登って行った。八合目に来ると大入道が現れ、これ以上行ってはならんとどなったが、女は気にもとめずに登っていった。白山の神はこれを大いに怒り、その女を二つに割り、片方を谷へ投げつけた。それ以来その谷の近くを通ると、片足の女が立っていたり、わらじが片方だけあったりするという。現在でもこの谷に住むイワナは片目であるという。」
この地方では、片目のことをメッコといい、メッコ谷が目附谷になったと考えられています。
ちょっとゾッとするようなお話です。なかなか夏の夜にふさわしい趣がありますね。
(原作:医学博士 武藤政春)
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前回は日本に「目」のつく地名についてのお話でした。東北地方だけでも、「目」のつく地名は語りつくせぬほどありそうですね。
青森県の川目、大川目、西川目、下清水目…、岩手県の内川目、立川目、横川目、外川目…、宮城県の反目(そりめ)、桜ノ目、塚ノ目、霞目(かすみのめ)…、山形県の落野目、糠野目…など、東北地方にはやたらと「目」のつく地名が多いようです。
そして興味深いのは、東北地方の北部には「――川目」という地名が多く、南部には「――の目」という地名が多くなることです。「――の目」という地名は栃木県まで及んでいます。
本当にいろいろありますね。この「目」にも意味や由来があるのでしょうか。
この東北地方独特といえる「――目」という地名の目の字は、本来「べ」であったものが「メ」に転化したものであろうと思われます。
秋田県阿仁町に岩野目沢という地名がありますが、この辺は非常に岩場の多い辺りです。そんな所から、岩の多い辺り→岩の辺(いわのべ)と本来名付けられたと考えるとわかりやすいでしょう。
仙台市の霞目はよく霞がかかる所であり、一関市の山目は奥州街道筋でここだけ山が迫っている地形です。本来は、霞の辺(かすみのべ)、山の辺(やまのべ)と命名されたのではないでしょうか。
北部の「――川目」という地名も同様に、「――川辺」がいつしか「――川目」に転化していったものなのでしょうね。
川目、山目というと、関東人にとって奇異な名称ですが、川辺、山辺と書き換えてみると違和感がなくなりますね。東北地方の「――メ」という地名は殆どが本来は「――べ」であったのだろうと思われます。
「目」のつく地名を見ていくだけでも、その土地の文化を垣間見るようで興味深いですね。またいずれ他の地方についてもお話ししていきましょう。
(原作:医学博士 武藤政春)
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この夏は暑いですね、ムトウ先生。外出するのもためらわれてしまいます…
本当にそうですね。今回は、日本の「目」のつく地名を探して、地図をたどってみませんか。
そのような旅も一興ですよ。実際みてみると、日本には「目」のつく地名が七十以上あるのです。
意外にあるものですね。その由来も様々なのでしょうか。
北海道知床半島の羅臼町のあたりは目梨郡(めなしぐん)と呼ばれています。これはアイヌ語のメナシの当て字です。メナシというのは東方の意味で、江戸時代までは襟裳岬の東方、即ち北海道の東半分をメナシと呼んでいたようですね。明治二年の北海道区画整理の際に、知床半島のあたりだけを目梨郡としたようです。
北海道には他にもアイヌ語由来の地名があります。ニセコ連邦の外れにあり、連邦で二番目に高い山の目国内岳(めくんないだけ)もそうです。メクンナイ(猫が鳴く)という説と、マクン(奥にある)+クンネ(暗い)という説があります。いずれにしても、いつでも猫が鳴いているような暗い山という意味なのでしょうね。
なるほど。何故地名に「目」がつくのか、由来も一緒に見ていくと面白そうですね。
秋田県八郎潟の東方にあるのが五城目(ごじょうめ)町です。この場合の「目」は中心を意味するようです。中世の頃この辺りに五つの城があり、その中心として栄えた土地であるため五城目という名が付いたという説があります。五城目町には馬場目川、馬場目岳という地名がありますが、これもまた中心を意味した目のようです。この辺りは牧場であり、馬の産地の中心に位置するために命名されたようですね。
また秋田県南部には西目(にしめ)町があります。これは西側が海に面しているために、西面→西メン→西メ→西目となったようです。西目という地名は日本全国に多く見られます。鶴岡市西目、熊本天草郡松島町西目、鹿児島県阿久根市西目など、いすれも西側が海に面しています。
「目」という字がさまざまな意味を持ち、そこから「目」のつく地名を多く広がっていくようになったのですね。まだまだ興味は尽きませんね。次回もまたお聞かせください。
(原作:医学博士 武藤政春)
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ムトウ先生、この夏は松尾芭蕉の足跡を追って小旅行に行ってみようと思うのですよ。
芭蕉の俳句を読むと、実に旅情を誘われますね。私もみちのくの旅に出てみたいものです。松尾芭蕉の『奥の細道』に、
行く春や鳥啼き魚の目は泪
という有名な句がありますね。この句の大意は、春はもう過ぎ去ろうとしている、行く春との別れを惜しんでいるのは人間ばかりではないようだ。鳥は悲しげに啼き、魚の目は涙にうるんでいる、という意味で、非常に趣の深い句です。しかし、せっかくの名句をあげつらうわけではありませんが、魚の目に涙というのはありえないことです。
涙はそもそも目が乾燥しないためのもので、水中で生活をする魚の目はいつも潤っていますから、魚の目には涙はありません。涙が存在するのは、陸上生活をする両生類以上の生物です。
そうなると、「行く春や鳥啼き猫の目は泪」とでもすべきでしょうか。句の情趣はかなり落ちてしまいますが。
なかなか面白いですが、残念ながらそれもないでしょう。
悲しみや喜びで涙が出る、感情の高揚によって涙が出てくるのは、数ある動物の中でも私たち人間だけの特性だからなのです。
ヨーロッパでは、獲物をとらえて水面に浮かびあがったワニが涙を流すので、ワニは慈悲深い動物で、獲物への慈悲の涙を流すと言い伝えられてきましたが、これも瞬膜が水をぬぐう作用に過ぎず、感情による涙ではありません。
感情による涙を流すのは人間だけなのですか。
ところで涙といえば、「鬼の目にも涙」とか「スズメの涙」など、言葉の例えにも使われますね。
「鬼の目にも涙」という場合の「涙」は、ワニに言われたような慈悲の意味ですね。しかし「スズメの涙」というのはちょっと違っていて、小さいもの、少ないものの意味です。「涙金(なみだきん)」のような使い方です。スズメのように小さな動物の、しかも涙のように小さいもの、ということで、極めて小さいものを意味する場合に使われています。
私たちにとって身近な「涙」ですが、こうして見ると、さまざまな発見があるのですね。
(原作:医学博士 武藤政春)
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前回は動物の目に例えた言葉を、日本語表現においてお話しいただきました。今回は西洋における動物の目の例えについてお聞かせください。
英語の「cast 〔make〕sheep’s eye at〜(ヒツジの目を投げかける)」、これは「〜を流し目で見る、〜に秋波を送る」という意味で使われているようです。ライオンなどの肉食動物の目は、前方がよく見えるよう顔の前面に並んでついています。草食動物であるヒツジの目は、顔の側面についていて、どこから敵が襲ってきてもすぐに発見できるようになっています。ヒツジは同時にその目が切れ長であるため、何となく流し目をされているように感じたのでしょう。
ヒツジの目をそのようにとらえるとは、面白いですね。他にはどのようなものがありますか。
cat’s eye(ネコの目)は宝石の猫目石のことですね。ネコは、網膜の外側に反射層を持っています。外から直接網膜に達する光だけでなく、網膜をいったん通過した光を反射層で反射させ、もう一度感知するようになっています。反射した光が目の外にも出てきますから、ネコの目は薄暗闇でキラキラ光るのです。ちょうど猫目石がそのように光る石なので、cat’s eyeと名付けられたのでしょう。cat’s eyeは網膜芽細胞腫などの際に、目がキラキラと光る場合の症候名としても使われます。
症候名の表現が、動物の目に由来することもあるのですね。
有名なものに、crocodile tears(ワニの涙)があります。これは先天性または顔面神経の麻痺後に起こるもので、顔面神経の配線が混線することによって、飲食時に唾液だけでなく涙も同時に出てしまう症状です。実際にワニが飲食時に涙を流すことはありませんが、瞬膜が角膜上の余分な水分をぬぐっている様子がそう見えるのでしょう。現在、一般的な英会話でcrocodile tearsといえば、そら涙を流す、しらじらしく流す涙を意味しています。
「目」「eye」を用いた表現には実にさまざまなものがあるのですね。文化の東西を問わず、昔の人々の観察眼には驚かされます。
(原作:医学博士 武藤政春)
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梅雨に入りましたね、ムトウ先生。「蛇の目でお迎え〜」なんて歌もありましたが、最近はあまり言われなくなりましたね。
「蛇の目傘」の「蛇の目」は、太い輪の形を意味する言葉です。形がヘビの目に似ているところから名付けられたのですよ。日本語には、このような動物の目に例えた言葉がたくさんありますね。例えば、足の裏などにできる「魚の目」は、形がサカナの目に似ていることと、サカナの目を食べるとなりやすいという言い伝えから名付けられたようです。
ほかにも「猫の目」は「巨人打線はしょっちゅう打順が変わる猫の目攻撃だ」のように使われます。めまぐるしく変化するものの意ですね。瞳孔は、暗い所では光を多く採り入れるために大きく、明るい所では反対に小さくなります。ネコはヒトに比べて瞳孔の大きさの変化が非常にすばやいので、めまぐるしく変わるものに対して例えに使われるのでしょう。
確かにそうですね。ほかにもそのような例えを使った言葉があるのでしょうか。
夜になると見えなくなる夜盲症のことを「鳥目」といいますね。目の網膜の視細胞には、錐体と杆体の二種類があります。錐体は昼間明るいところで働き、杆体は夜働きます。トリは網膜の視細胞すべてが錐体で構成されています。ですから昼間はヒト以上に視力が優れていますが、夜は全く見えなくなっています。
鳥の目が夜見えないのは、そのような訳なのですね。
鳥といえば、「鵜の目鷹の目」は、ウやタカが獲物を探すときのように、熱心に物を探す目つきや様子をいいます。ウやタカは実際にヒトよりも視力のよい動物です。ウは空気中でも水中でも物がよく見えます。ウの目の水晶体はピント合わせの力が非常に強力なので、ヒトのように水中で遠視になることもありません。またタカは、ヒトの八倍以上視力が優れていると言われています。タカの視力が優れているのは、網膜に錐体が非常に機能的に集中して分布しているからです。
古代東洋人が、いかに自然に対して鋭い観察力を持っていたかを物語っていますね。
東洋だけでなく、西洋にも動物の目に例えた言葉がありますよ。次回は西洋についても見てみましょう。
(原作:医学博士 武藤政春)
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「狂歌」を知っていますか?洒落や風刺をきかせた五・七・五・七・七の短歌です。現在はすたれてしまいましたが、「目」の出てくる狂歌には面白いものがあるのですよ。
以前、「目」の出てくる川柳についてお話しいただいたことがありましたね。狂歌についても興味深いです。
江戸時代の狂歌を見てみましょう。例えばこんなものがあります。
としどしに目も弱りゆき歯もかくる
古鋸(ふるのこぎり)のひきてなき身は
「ひきてなき」は「引く手あまた」の反対です。古くなった鋸は目も弱り歯も欠け、誰も引いてはくれないのと同じように、若い頃はあれ程言い寄る男が多かったのに、年をとり目も弱り歯も欠けるようになったこの頃は誰も声をかけてくれないという狂歌らしい題材です。
福徳の宝と思へのらむすこ
いつも親父にもらふ目の玉
大目玉をくれる親父も最近は少なくなってきたようですね。
なかなか面白いですね。他にはどのようなものがあるのでしょうか。
狂歌には恋の歌も多いようです。
こはごはも人の見る目をぬき足に
ふみそめてけり恋の道芝
これは初恋を詠んだ歌ですね。「目をぬき」というのは、人の目をくらませることで、「抜き足」にかかるかけ言葉になっています。
目の病気が登場する狂歌もあります。
「目をやめる人をみ侍りて」
うば玉のやみ目は空にしられねど
うたかたは星かたかたは雲
「うば玉の」というのは黒、夜、夢、闇にかかる枕詞です。闇、空、雲という縁語を使って、目の病気の人を見舞に行ったら、ある人達は目の星で、ある人達は目の雲で入院していた、と詠んでいるのです。この頃から目の病人も入院していたらしいことがうかがえますね。
目星というのは今でいう角膜感染症のことで、目の雲とは翼状片のことでしょうか。
川柳などは現在でも愛好者が多いですが、狂歌がすたれてしまったのは何故でしょう。
庶民の文学となった川柳に対して、狂歌は古典和歌の伝統を負っており、より文学的素養が必要な分だけ難解なのでしょう。狂歌では、縁語、かけ言葉、本歌取りといった古典和歌の技巧が駆使されており、古典和歌の素養が必要とされるのです。
しかしながら難解なものだけではなく、狂歌にもそれなりの良さがあります。今はすたれてしまっていますが、狂歌の良さが再認識されてもいいのではと思います。
(原作:医学博士 武藤政春)
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ムトウ先生、恐竜展を見てきましたよ。太古の時代に生息していた恐竜に思いをはせると、子どもでなくともワクワクするものですね。
本当にそうですね! 1822年、イギリスの開業医であり化石収集家であったマンテルは、不思議な形の歯の化石を見いだし興味を抱きます。当時の専門家たちは「サイの歯」と考えましたが、その一帯からさらに化石が発見され、その骨格は現存するどの動物にも該当しないことがわかります。歯はイグアナの歯に似ているがずっと大きな動物であるため、その動物は「イグアノドン(イグアナの歯)」と名付けられます。その後これに類する化石が世界各地で発見され、この生物は「Dinosauria(恐ろしい爬虫類)」と命名されたのです。
現在知られているように、恐竜は2億年から6500万年前頃まで地球上の覇者として君臨し、6500万年くらい前に突然絶滅します。絶滅の原因は諸説ありますが、決定的なものとはなっていません。
あのような大きな体ですから、目の視力も相当に良かったのでしょうね。
恐竜はすべて絶滅しましたから、実際の生態やどんな目を持っていたか、全容を解明することはできません。しかし化石からは、脳の大きさや目の位置などを知ることはできます。その歯を見れば草食性か肉食性かがわかります。プロントサウルスやイグアノドンなどは草食性で、体の大きさに比べて脳も目もあまり大きくはありません。したがってそれほど視力は鋭敏ではなかったようです。
肉食性の恐竜はどうでしょう。狩りをするので視力も優れていたのではないでしょうか。
ティラノサウルス、ディノニクスなどの肉食恐竜は、頭蓋骨も大きく、眼窩も大きいので、より大きな脳と目を持っていたはずです。目も顔の前面に並んでついているので、両眼視機能もよかったと考えられます。
恐竜の中で特に大きな目を持っていたのが、オフタルモサウルスです。オフタルモは目の意味ですから、その特徴からこの名がつけられたのでしょう。オフタルモサウルスは魚竜として非常に進化した恐竜です。薄暗い水中でエサをとるのにも十分役立ったことでしょう。
恐竜がどのような目をしていて、その目がどのような能力を持っていたか、考えると実に興味深いです。科学のテーマとして非常に面白いものの一つですね。
(原作:医学博士 武藤政春)
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ムトウ先生、休暇中に鍾乳洞に行ってきたのですが、上の方をコウモリが飛んでいるのが見えましたよ。コウモリはあんな暗い場所でよくぶつからずに飛び回れますね。
コウモリの顔を見たことがありますか?不格好に大きい耳、大きなひだを持つ分厚い鼻、溝の多いしわだらけの口、人間の美醜の基準では、醜の部類に入るでしょう。ところが、コウモリにとっては、この顔こそが命といってもよいのです。
1793年、イタリアの動物学者スパランツアーニは、放し飼いにしていたペットのフクロウが、真っ暗闇の中では周囲にぶつかってしまうことに気付きました。夜行性の動物なのになぜ、と思った彼は、試しにコウモリをつかまえ、真っ暗な部屋に放してみました。コウモリは周囲にぶつかることなく部屋の中を飛び回ります。試しに目をふさいでみても飛び回ります。次に耳をふさいでみると、今度は飛び回ることができません。なぜ目よりも耳なのか。彼はこの答えを見つけることが出来ませんでした。
その謎は後に解明されたのでしょうか?
その答がわかったのは145年も後の1938年のことです。ハーバード大学のピアース教授らが、コウモリは飛行中に口や鼻で超音波を発信し、その反響を耳で聞きとって、障害物やエサの存在を感知していることを発見しました。
超音波を発信するためには、どうしても大きなひだを持つ鼻と、しわだらけの口が必要であり、反響してくる音波を感知するためには大きな耳が必要です。コウモリの超音波システムは非常に精密に出来ていて、例えば2メートル離れた所にいる1センチメートルの大きさの虫でも感知できるといわれています。
闇の中で暮らすコウモリにとって目の役割を果たしているということですね。目そのものはあまり使わないのでしょうか。
コウモリにとって目が必要ないのかというと、そうではありません。コウモリが生息する洞窟の入り口を黒い板でふさいでおくと、帰ってきたコウモリはその板にぶつかってしまいます。超音波システムが作動していれば避けられるはずです。 コウモリは四六時中超音波を発しているのではありません。それは私達人間でいうと泣き叫んでいる状態と同じです。大声で何時間も泣き続けることは出来ませんね。多少明るいところや、慣れた場所では超音波を休ませ、その間は視覚に頼って活動しているようです。
(原作:医学博士 武藤政春)
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前回に続き、聖書から連想される眼病についてのお話ですね。
旧約聖書の「創世記」6〜9章には、ノアの方舟の話が出てきます。暴力や不正が横行し、世の中がすっかり乱れた様子を見て、神は人類を作り賜うたことを後悔し、これを絶滅せんと考えました。唯一人ノアだけは正直に神を敬い生活していたので、神はノアだけは助けようと思い、ノアに命じて一隻の舟を作らせます。これにノアの家族および全ての動物のひとつがいずつを乗船させました。しかる後、40日間に及ぶ大嵐を起こし地上に大洪水を起こして方舟に乗っていた者たち以外を絶滅させてしまったという話ですね。
有名な話のひとつですね。これに似た眼の病気とはどのようなものでしょうか。
ノアの方舟の場合、神は舟が出来上がるのをきちんと待っていてくれたわけですが、もし舟が出来上がる前に大嵐を起こしてしまったとしたらどうなったでしょう。正にそのような状況と考えられる目の病気に未熟児網膜症があります。
眼球の網膜は母胎内で10ヵ月かかって完成するスケジュールになっています。それが妊娠7〜8ヵ月頃に早産で生まれてしまうと、未完成の網膜が外界の光という大洪水の中で大急ぎで舟(網膜)を完成させようとし、そのあせりが網膜に異常な反応を引き起こしてしまうことになるのです。
外界の光という大洪水とは言いえて妙ですが、未熟な網膜にとっては大変なことですね。
方舟(網膜)が完成するまでは、洪水(出産)を起こさないように、神様(両親)は充分気をつけてあげなければならないでしょう。
聖書に載っている話は、現代の我々にとっても色々と教訓になるものが多いように思います。
(原作:医学博士 武藤政春)
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ムトウ先生、ホテルに泊まった時、いつも奇異に思うのですが、必ず聖書が置いてあるのですね。外人客など稀にしか泊まらないのではないかと思われるところでもそうです。
聖書をめくってみると、結構面白い話が載っていますよ。特に旧約聖書は大昔の物語と言った色彩が強く、興味深いです。中には眼病の予防に関して、教訓となるような話もあります。
例えばどのような話でしょうか?
創世記四章には、アベルとカインの話が出てきます。アベルとカインはアダムとイヴの間に生まれた兄弟です。アベルは優等生タイプのいい子、カインは腕白でも逞しく…という言葉のように育った子です。アベルは羊の放牧を行い、カインは土地を耕しました。最初の実りの秋、兄弟はともに神に捧げ物をしましたが、神はアベルの捧げ物だけを受け取り、カインの捧げ物は受け取りませんでした。つまり神のエコヒイキがあったわけですが、これを悲観したカインはアベルを殺してしまいます。
しかしその結果、アベルの恨みの血が大地を覆い、土を耕すことが出来なくなったカインは放浪の旅に出るという話です。
アベルとカインの話をテーマにしたものとして、ヘルマン・ヘッセの「デミアン」、映画では「エデンの東」などがありますね。
そうですね。私はこの話を読んで、網膜静脈閉塞症という眼底の病気を連想しました。網膜静脈閉塞症というのは、眼底の動脈と静脈の交叉部において、動脈が静脈を圧迫し、静脈の血液の流れを一時的に頓挫させた場合に、静脈を流れ去るべき血液が静脈からあふれ出て、いわゆる眼底出血を起こしてしまう病気です。
出血を起こした領域の網膜は、出血により毛細血管網が圧迫され、血液が流れ込まなくなるので、結局その領域の網膜は栄養が受け取れなくなってしまいます。
これは正に、カインたる動脈が、アベルたる静脈の首を絞めた所、静脈の恨みの血が大地(網膜)にあふれ、結局動脈も自らの耕すべき大地を失う様なものです。
目の血管に兄弟ゲンカされて、その結果目が見えなくなってしまうのは辛いですね。
この病気は血圧が上昇したときに起こすことが多いですから、気をつけたいですね。次回はもう少し、聖書から連想する眼病の話を紹介しましょう。
(原作:医学博士 武藤政春)
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ムトウ先生、春には虫たちばかりでなくヘビなども活動を始めるそうですね。手足のないヘビは、その分、目などの感覚器官が優れているのでしょうか。
旧約聖書では、エデンの園でイブはヘビにそそのかされ、禁断の木の実を食べてしまいました。その罰としてヘビは手足をもがれ、地を這い回って暮らすように命じられたといいます。
手足という大切な器官を取り上げられたヘビが今日まで生き長らえてきたのは、特別な感覚を持ち合わせたためかもしれませんね。
生活圏である草むらは視界が良くありませんが、そこに適応した感覚を持つのでしょうか。
まずヘビの目には、他の動物には見られない特徴があります。ヘビの目は透明化した皮膚が眼球をおおっています。特殊なコンタクトレンズで保護されているようなものですから、草で目を突きささずに済む大変便利なものです。また、ヘビの目の構造から考えて、相当良い視力を持っているはずです。
しかし視界のよくない草むらでは、視力を十分生かしているとは思えません。しかもヘビの主食であるトカゲやカエルなどは、周囲に合わせて体の色を変える能力がありますからね。
ヘビの優れた視力を持っていても見つけにくいというわけですね。それを補うような器官があるのでしょうか。
実はヘビには「もう一つの目」があるのです。1952年のアメリカの研究で、ヘビの両目をテープで覆い、臭神経を遮断するものを吹きかけて、マウスのオリに入れてみました。すると視覚も臭覚も利かないはずのヘビが、難なくマウスを捕まえたのです。
その後の研究で、ヘビは目と鼻の間にあるえくぼのような凹みに温度感覚の受容器官を持っていることが明らかになりました。
ヒトの皮膚には、温かさを感じる温点が1平方センチメートルあたり3つあります。ところが、ヘビのこの凹みには15万個も集中して存在しています。この感覚器官は一対ありますから、ちょうど両目で物を見て立体感が得られるように、温度を発する物体の方向や距離、大きさから形まで、ある程度わかるようになっています。
だから視界の良くない草むらでもエサの存在を探知できるのですか。ヘビは手足を持たない代わりに、生きていくうえで目以上に頼もしい武器を与えられたという訳ですね。
(原作:医学博士 武藤政春)
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梶原景時という武将を知っていますか。1180年、平氏追討のため挙兵したものの敗走した源頼朝を、山中において見逃したというエピソードが知られています。
頼朝が隠れている洞窟を覗き込み、そこに頼朝がいるのを知りつつも見逃したとか。武士の情けか、はたまた頼朝の堂々たる姿に気押されたか…感動的な逸話ですね。
しかしその話は本当なのでしょうか?当時の景時の立場としては、もし頼朝の首を取れば大変な手柄であったはずです。後年景時は、この一件もあって頼朝に重用されるようになったものの、この時点での頼朝は敗軍の将であり、いわば賞金首のようなものです。果たしてこのようなチャンスを武士の情けなどで放棄するものでしょうか。
景時は武士の情けより、実利を取るような人物だったのですか?
景時はのちに頼朝に仕えるようになり、源平の合戦には源氏方として出陣します。屋島の合戦の時、義経に逆櫓を船に付けることを進言して叱責され、以後義経を恨むようになります。義経の行状を事ある毎に頼朝に進言し、兄弟対立を煽るようになったようです。
頼朝の死後、幕府内に権力闘争が起きると、彼は結城朝光を陥れようとして逆に三浦、和田氏等の弾劾を受け鎌倉を追われます。このため彼は、幕府に対抗し挙兵しようとしますが、上洛の途中、追討軍に討たれ一族ことごとく討ち死にします。
景時の人物像は、頼朝を見逃した、無欲で高潔な武将とは隔たりがあるように思えますね。
むしろ、野心が強い小人物という人間像が浮かんできます。こんな人間が、目の前にぶら下がっている大きなチャンスを逃すでしょうか。
景時が洞窟の中を覗き込んで、頼朝を見逃したのは、決して頼朝の姿を認めながらではなく、頼朝の姿が見えなかったからであると考えた方が納得がいきます。
ということは、景時の目に何かの原因があったとも考えられるわけですね!
これは私の想像でしかないのですが、景時は実は夜盲症で、そのため薄暗い洞窟の中がよく見えなかったために、頼朝を見逃したのであると考えると、わかりが良いような気がします。
(原作:医学博士 武藤政春)
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ムトウ先生、ラクダは背中のコブに蓄えた脂肪のおかげで、三日間飲まず食わずで歩き続けられるそうですね。
砂漠という厳しい環境下に暮らすラクダは、他の動物には見られないいくつかの特徴を持っています。背中のコブの脂肪はエネルギーとして利用でき、また、酸化するといつでも水分として使用できます。足は大きくて柔らかく、座布団のようです。これは砂地を歩くのに最適です。膝や胸に特有の「たこ」があって、荒れ地で座るのに適しています。鼻孔は裂け目状になっていて、開閉が自由にできます。そして耳には毛があります。いずれも砂ぼこりが入りにくい構造になっているのです。
ラクダの目にも、環境に適した特徴があるのでしょうか。
砂漠で暮らすラクダの目にとって、大敵は砂ぼこり、乾燥、強い日差しです。ラクダの目には、こうした大敵に対応する特徴がいくつも見られます。 ラクダのまつ毛は二列になっていて、しかも密集して生えています。このため、砂ぼこりが入りにくくなっています。また、下のまつ毛はネコのヒゲのように振動や触覚に敏感で、ちょっとした砂ぼこりでも瞬時に瞬目反射が誘導され、まばたきによって砂ぼこりが入るのを防ぎます。
さらに、ラクダの瞼板腺は、非常に脂肪分に富む粘り気のある液を分泌します。乾燥した環境の下にあっても、涙が蒸発しにくくなっているのです。
砂ぼこりや乾燥に耐えられる、優れた特徴があるのですね。もう一つの敵、強い日差しについてはどうでしょう。
ラクダの目で最も特徴があるのが瞳孔です。ウマのようにただ横長に縮瞳するだけでなく、上下からノコギリの歯のように虹彩組織が伸びて、やがてそれが鎖状に連なり、格子のようになります。ラクダは、この瞳孔と垂れ下がったまつ毛によって、あたかも目にブラインドをかけたような状態にできるのです。強い日差しの照り返しもなんのその、砂漠でもたくましく生きていけるのです。
自然の摂理なのか、神の意志なのか、生き物の素晴らしさには本当に感心させられますね!
(原作:医学博士 武藤政春)
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平氏の武将で平忠盛という人物を知っていますか?平清盛の父にあたる人物です。
平清盛は有名ですが、その父についてはよく知らないですね。詳しく教えてください。
平氏はその祖を天皇家に発するとはいえ、11世紀の頃には高い身分にもついておらず、源氏の隆盛に比べて見る影もない劣勢でした。しかし院政が始まると、院との結びつきによって勢力を盛り返して、院の北面の武士となり、昇殿を許されるようになります。
しかしながら貴族たちからは、成り上がり者として馬鹿にされていたようです。平家物語の一節に「忠盛御前の召に舞はれけるに、人々拍子を替えて、伊勢へいしはすがめなりけり、とぞはやされける」とあります。伊勢産の瓶子(へいし=とっくり)は粗末な作りだから、酒を入れるよりも酢瓶にした方がよいな、とはやされながら、暗に、伊勢の平氏(平忠盛)は「眇(すがめ)」だとこけにされていたのです。
「眇(すがめ)」とはどういうものですか?
片目と解釈される場合と、斜視と解釈される場合があります。恐らく両者とも正しいでしょう。片目がケガか感染症で角膜が白く濁り、結果その目が外斜した、今でいう視力不良性外斜視を意味していたと思われます。 このように忠盛が「すがめ」とそしられながらも耐えて努力していた頃、その子清盛は13歳の若武者でした。
多感な年頃のときに、父親がからかわれ、辛かったでしょうね。
大きな屈辱を感じたでしょうし、コンプレックスを抱いたであろうことは大いに考えられます。清盛は、保元平治の乱後、急速に権力の座に登りつめていきますが、彼が目指したのは旧来の貴族的な権力の座でした。思春期にコンプレックスを抱いた高貴な貴族の座を、彼自身が経験してみたかったためのような気がします。武士の本分を忘れた清盛の一族は、やがて源頼朝に滅ぼされてしまうわけです。
忠盛の目が「すがめ」でなかったら、清盛は貴族に対して必要以上のコンプレックスを抱かず、その政権も目指す方向が違ったのでしょうか。日本史も少し変わっていたのかもしれないのですね。
(原作:医学博士 武藤政春)
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ペットショップでカメレオンを見かけましたよ。最近は癒し系のペットとして人気があるそうですね。トカゲと同じようなものなのでしょうか。
カメレオンはトカゲの仲間ですが、目も体の仕組みもトカゲとは大分違いますよ。両者の生活環境が異なるからです。地面を這い回って生活するトカゲは、いわば二次元の世界に住んでいますが、木の上で生活するカメレオンは三次元の世界に生きています。
二次元と三次元ですか。それぞれ体にどのような特徴があるのでしょう。
トカゲは地面を歩きやすいように五本指の手足を持っています。これに対し、カメレオンは枝をつかみやすい折りたたみ財布のような手、巻き付きやすい尾を持っています。枝につかまってあまり動かずに生活していますが、長く伸びる発達した舌を持ち、体が俊敏に動けなくても昆虫などのエサを捕らえることが出来ます。
一見似ているようで、全く違う生き物なのですね。目の構造にも違いがあるのでしょうか。
カメレオンもトカゲも、二つの中心窩のある目を持っており、両目で四か所が見えます。視力も相当良いはずです。両者の目が異なるのは、その動き方です。トカゲの目は左右にしか動きません。二次元の世界に生きるトカゲは平面的な視界が得られれば十分です。 カメレオンは樹上という三次元世界に生きていますから、立体的な視界が必要になります。カメレオンの目は全方向に非常によく動きます。おそらく現存する動物の中では、最もよく動く目を持つ動物でしょう。
前に伺ったお話では、トカゲの場合、真後ろが見えにくいので、後ろから敵に襲われたらしっぽを切って逃げるということでしたね。
そうですね。カメレオンの目は突き出ていてよく動きますから、真後ろまで十分観察できます。しかも左右の目が別々に動くので、片目で前方を、片目で後方を見ることもできます。 カメレオンはしっぽを切って逃げるような必要はありません。当然、カメレオンの尾は切れませんよ。
(原作:医学博士 武藤政春)
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ムトウ先生、先日『曾根崎心中』の人形浄瑠璃を観てきましたよ。
好き合っていながら二人が添い遂げる場がこの世になく、来世で恋を結ぶために死を選んだお初と徳兵衛…近松門左衛門の代表的な作品ですね。「心中」というのは江戸時代に作られた言葉ですが、これは「忠」の字を逆転分解したものということを知っていますか? 当時「忠義」というのは武士階級だけに許された言葉であり概念でした。町人には人間としての誠意などないものとみなされていたのです。
これに対し、町人にだって誠意はあるのだという心意気を示すために作られたのが「心中」です。武士の「忠義立て」に対応して、町人階級では、様々な手段でお互いの誠意を示す「心中立て」が行われていました。
元禄時代に至り、近松門左衛門が『曾根崎心中』『心中天の網島』など一連の作品で人気を博するようになると、一般に心中というと男女の情死をさすようになったのです。
そのような成り立ちを持った言葉とは知りませんでした。時代とともに、その示すものも変遷してきたのですね。
ところで、心中といえば、「眼の無理心中」とも呼べる奇妙な病気があるのです。それは眼球をざっくりと穿孔するケガをした場合に起こります。その場合、ケガをした眼が駄目になったとしても、それは理解できますね。ところが、穿孔性の眼外傷を受けた場合に、稀ではありますが、もう一方のケガをしていない方の眼にも強い炎症を起こし、結局両目が駄目になってしまうことがあります。
どうしてそのようなことが起こるのですか?片眼だけでも大変なのに、両目とはたまったものではありませんね。
何故そのようなことになるのかは、未だわかっていません。この病気は交感性眼炎と呼ばれていますが、まさか眼が忠義立てをしてつき合っているわけでもないでしょう…。
交感性眼炎というのは、穿孔性の眼外傷を受けた場合のみに起きてくる可能性があるものです。眼に無理心中されたくなければ、まず穿孔性の眼外傷を受けないように気を付けなければなりませんね。交通事故によるガラス破片、旋盤工場で飛入する鉄片などで起こす場合が多いのです。また意外に多いのが、子ども同士でハサミなどをいたずらしていて眼を突いてしまうという事例なのですよ。
(原作:医学博士 武藤政春)
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先日はウシの大きな目のお話を伺いましたが、ウマも大きな目をしていますね。速く走ることのできるウマの目は、とてもよく見えるのでしょうね。
ウマは大きくて突き出た目をしているので、実はハエに目をなめられて寄生虫感染を起こすこともあるのですよ。ハエになめられてしまうのは困りますが、目が大きくて出目なことは、ウマにとっては大変好都合なのです。
ウマのような草食動物は、いつも肉食獣に襲われる危険にさらされています。どこから敵が現れても探知できるように監視している必要があります。目が大きくて出目であれば、その分広い視野が得られて便利です。
大きくて出目であることの他にも、優れた特徴があるのでしょうか。
まず目の位置ですね。ウマの目は顔のほぼ真横についています。ヒトのような両眼視はほとんど出来ませんが、周囲の360度がほぼ見渡せます。
次に、ヒトの瞳孔は円形に縮瞳しますが、ウマの場合は横長に細く縮瞳します。そのため、縮瞳している時でも、横に幅広い範囲がよく見渡せます。さらには中心野が横長の帯状になっているため広い範囲をよく明視できるという訳です。
360度が見える視界というのは、どのようなものなのか見てみたいですね。
ワイドスクリーン映画の画面が、周囲360度あるかのように見えている状態ですね。どの方向から敵が現れても、すぐに探知できる便利な目です。
また、ウマの目は調節が不必要で、実際ほとんどしていません。もしも草を食べるとき、いちいち目の調節をかけていると、その間は遠方視が不明瞭となって監視がおろそかになってしまいますね。ウマの水晶体はいびつに作られていて、敵の来襲を見張る水平方向に対しては正視に、食物の草を見る下方に対しては軽度の近視に常に設定されている目なのです。
まさにウマの生態にぴったりに作られた目ということですね!
そうですね。ちなみに、360度の目は野生状態では好都合ですが、競走馬にとってはかえって邪魔になります。観客席まで目に映ってしまい、気が散ることがあるのです。そこで、神経質なウマにマスクをかぶせ、あえて前方だけが見えるようにしています。ひたすら速く走ることを要求される競走馬の宿命かもしれませんね。
(原作:医学博士 武藤政春)
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ムトウ先生、戦国武将は歴史ファンの心を引き付けてやまないですが、なかでも伊達政宗は人気がありますね。
伊達政宗といえば、右眼を眼帯で覆った勇猛果敢な武将として知られていますね。しかしその一生を見ると、かなりばくち的な行動を取ることが多かったようですよ。
豊臣秀吉が小田原を攻めた時、秀吉の求めに対して、政宗は最後まで情勢を伺い洞ヶ峠を決め込んでいました。結局は秀吉側に参陣しましたが、のちに秀吉に遅参を責められ箱根に幽閉されます。やがて秀吉に謁見が許されると、切腹を覚悟の死装束で臨んだそうです。その後も隣国の騒乱を陰で煽動して、秀吉に睨まれたり、関ケ原の合戦時のどさくさに南部領内の一揆を煽動して家康の不興を買ったりしています。
伊達家の当主でありながら、随分危ない橋を渡っていましたね。
それだけ野心の強い人物であったということなのでしょうね。この野心の強さというのは、幼少時から彼が感じていたコンプレックスの裏返し的行動だったのではないかと思われます。彼のコンプレックスの一つは母の愛の薄さであり、一つは彼の右目です。
1590年、伊達家当主となっていた政宗は、実母保春院に毒を盛られ、危うく命を落としそうになります。小田原征伐にすぐに参戦しなかった政宗が秀吉の怒りを買ったため、家の安泰を考えた保春院が政宗を亡き者にし、弟の小次郎を後釜に据えようとしたのです。
いくらお家大事としても、母が実の子を殺そうというのは尋常ではありません。
おそらく政宗に対しては、幼少時より母の愛が薄かったのではないかと思われます。 政宗は幼児期に角膜感染症で右眼を失明しています。古来の民族では片目は片足とともに神の姿とされ、畏敬されるべきものでしたが、彼自身は片目を忌み、話題がこれに及ぶことを嫌ったといいます。彼は後に自分の木像を作るにあたって、両目をきちんと揃えるようにと注文をつけていました。
政宗は、片目であることをそんなにもコンプレックスに感じていたのですね。
彼は、幼少時より抱いていたこれらのコンプレックスを飛躍へのバネとしていたことでしょう。彼がもし、非常に恵まれた環境で育っていたら、果たして奥州の覇者となりえたか疑問ですね。
(原作:医学博士 武藤政春)
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ムトウ先生、海の上をすいすいと跳ぶトビウオは実に気持ちよさそうに見えますね。
確かにそうですね。しかし空を飛ぶというトビウオの特技は、必要に迫られてのことなのです。マグロやイルカなどの大型魚類に襲われたとき、海中にいたのではすぐに食べられてしまうので、やむなく海を脱出して飛んでいるだけというのが実態なのですよ。
ところで、トビウオのように羽を持っていないのに、水面をしじゅう跳びはねている魚がいるのを知っていますか?メキシコ南部から南アメリカ北部に生息するヨツメウオです。
ヨツメウオとはどのような魚ですか?
ヨツメウオは水面上を飛ぶ小昆虫を食べて生活しています。エサを捕らえ、外敵から身を守るために、ヨツメウオは常に顔の上半分を水面上に出し、目の上半分で水面上を、下半分で水中を観察しながら泳ぎ回っています。エサが飛んでくると、ピョンと跳びはねて食べ、敵い襲われると、跳びはねながら逃げていきます。
ヨツメという名から、水上を見る目と水中を見る目が分かれている姿が想像されますね。
本当の目は二つしかありませんが、一見すると四つ目があるように見えるので、その名がついています。ヨツメウオの目の瞳孔の中央部には、瞳孔に入る光の量を調節する虹彩組織が水平に横切っていて、瞳孔を二つに区分しています。そして、この組織のある位置と水面が一致するようにヨツメウオは泳ぎます。
水晶体はいびつに作られていて、水中方向からの光に対しては屈折力が強く、空気中方向からの光に対しては屈折力が弱くなっています。網膜も水中用と空気中用の上下に二分されています。
ヨツメウオの目は、生態に合った優れた仕組みを持っているのですね。
目は二つでも実際に四つ分の働きをしているので、ヨツメという名は妥当な名前かもしれませんね。
顔の上半分を水面上に出して泳ぎ回るというヨツメウオは、交尾のときもオスとメスが並び、そのままの姿勢で行います。そのため、交尾器は右か左のどちらかに偏ってついています。オスが右利きであれば左利きのメスを、左利きであれば右利きのメスを探さなければなりません。魚の世界も大変ですね。
(原作:医学博士 武藤政春)
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先日、清少納言が遠視だったのではないかというお話を伺いました。清少納言と並び称される、「源氏物語」の作者・紫式部のことも知りたくなってきます。
紫式部は小さい頃から賢く、勉強家だったようです。兄よりも早く漢文の暗唱をする彼女を見た父親は、彼女が男の子でないことを悔しがったといいます。 紫式部日記をひもとくと、紫式部が夜でも遠くがよく見えていた様子や、近方視が困難になっていた様子がうかがえます。清少納言同様、これも30代半ばのことですから、やはり遠視であったのではないかと推察されます。
勉強家だった紫式部と清少納言が近視にならずに済んだのは何故なのでしょうか。
おそらくは、二人が読み書きしていた文字が字画が多く混み入った文字の漢字ではなく、字画が少ない仮名文字だったからではないでしょうか。
当時、仮名混じり和文を書くのは専ら女性に限られていました。漢字や漢文はあくまでも男性にとっての教養で、女性が漢文の素養をひけらかすことは小賢しい事であり、女性は仮名文字だけを読み書きすれば良いのだと考えられていました。この風潮のおかげで、紫式部と清少納言は近視にならずに済んだのかもしれません。
女性が漢文の素養を見せるとよく思われないなんて、息苦しいことだったでしょうね。
生真面目な性格の紫式部は、小賢しい女と言われないよう漢文の素養があることを隠し、一条天皇から「源氏物語の作者は漢文で書かれている日本書紀を相当に読み込んでいるに違いない」と言われたときも「最近は『一』という漢字さえ書いておりません」と答えた程です。これに対して物事にこだわらない清少納言は、枕草子の中でもあっけらかんと、漢文の素養があることを披歴しています。
同じ優れた文学者でありながら、対照的な性格の二人だったのですね。
紫式部はそんな清少納言のことを「清少納言こそ、したり顔にいみじう侍りける人(清少納言ってしたり顔の嫌な女ね)」と辛辣に批評しています。しかし、もし紫式部が同じように奔放な性格で、漢文が得意だからといって漢文学の方にのめりこんでいったとしたら、「源氏物語」は生まれなかったでしょうし、紫式部は近視になっていたのかもしれません。
(原作:医学博士 武藤政春)
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先日テレビで、サケが故郷の川へと遡上してくる様子を見ました。海で過ごした後だというのに、きちんと生まれ育った川に帰ってくるというのは不思議ですね。
サケの受精卵は100〜150日でふ化し、稚魚となったサケは4〜6月頃に川を下って海へ向かいます。海で3〜5年生活したサケは、成熟し、生まれ故郷の川を目指して旅を始めます。人間に例えるなら、6歳くらいの子どもを見知らぬ土地へ連れていき、数年経ってから一人で生まれ故郷に帰るようなものであり、ほぼ不可能と言ってよいでしょう。
サケは何を頼りに故郷の川に帰ってくるのでしょう。何かレーダーになるものがあるのですか。
魚の聴覚器官は、サケに限らず極めて不完全なものです。内耳はあっても鼓膜がなく、聴覚はほとんど役に立っていません。その代わり魚には体の両側に、振動を感じる「側線」と呼ばれる器官があります。水の流れの微妙な変化を感知し、敵の存在やエサのありかを探るのに大いに役に立っています。ただこの側線も、サケの回帰にはあまり関与していないそうです。
翻って、魚の嗅覚はかなり鋭敏なようです。実験として、二つに枝分かれした川の上流で戻ってきたサケを捕らえ、鼻孔を綿でふさいでから分岐点の下流で放流すると、サケは分岐点の先へ進めなかったといいます。嗅覚が母川回帰に大きく関与していることを物語っていますね。
では、サケは故郷の臭いをたどって帰ってくるということでしょうか。
大海のはるか彼方から、嗅覚だけを100パーセント頼りに戻ってこられるのかは、やや疑問ですね…。
サケの目について考えてみましょう。その構造上、視力はかなり良いはずです。サケは故郷の川へ帰るときは、昼間だけ動いて、夜は回遊をしません。なぜ昼間だけ行動するかについては、いろいろな説があります。太陽の位置をコンパスにしている、まわりの地形を見ながら回遊しているなど言われていますが、まだ断定はできません。いずれにしても、昼間だけ回遊しているということは、視覚が回帰に何らかの形で寄与していることを想像させます。
サケの母川回帰にはまだまだ未知の部分が多いのですね。
(原作:医学博士 武藤政春)
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最近はめっきり朝が寒くなりましたね。寒い早朝には、枕草子の「冬はつとめて」という一節が思い出されます。
冬は早朝が良いという有名な一節ですね。枕草子を書いた清少納言は、紫式部と並び称される才媛ですが、勝気で強情な性格の女性であったようです。三十九段では、「夜鳴くもの、なにもなにもめでたし。ちごどものみぞさしもなき。(夜鳴くものは何から何まで風情があって全て結構である。ただ赤子だけはそうじゃない)」と書かれ、彼女には母性本能というものがあったのだろうかと、疑いたくなってしまう程です。
そんなことも書いているのですね…。勉強家で、優れた作品を著した彼女は、目も酷使したのではないだろうかと思いますが?
枕草子をひもとくと、清少納言の目がどのような目であったか、何となく想像できます。
一段「雁などのつらねたるがいとちいさく見ゆるはいとおかし」
(雁なんかの列をなしているのが空の遠くに大層小さく見えるのなんかは大変面白い)
三十九段「鷺はいとみめも見苦し。まなこゐなども、うたてよろづになつかしからねど」
(鷺は大変見た目も見苦しい。目付なんかもいやらしく、万事ひかれる点はないが)
など、遠くを飛んでいる雁の様子や、やはり遠くを飛んでいるはずの鷺の目付きがよく観察出来ていることから、遠方視力は充分よかったものと思われますね。
遠くまでよく見える、視力の良い目だったということでしょうか。
一方で、百五十五段では、薄暗い所で針に糸を通すのがじれったいということを述べています。薄暗い所で近くを見るのに若干不自由していたようですね。
彼女が枕草子を書いたのは33歳頃のことと考えられています。三十三歳で近くが不自由になるというのは、ちと早すぎますね。
遠方はよく見えていて、若いうちから近くが見づらくなっていたということになると、清少納言はどうやら、軽い遠視であったのではなかろうかと思われます。
(原作:医学博士 武藤政春)
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先日牧場に遊びに行ってきましたが、牛というのは本当に大きな眼をしていますね。
ウシは大きく突き出した特徴的な目をしていますね。先天性緑内障のことを「牛眼」と呼びますが、これはギリシア語の「Buphthalmos」(牛の目という意の合成語)に由来しています。乳児は眼球組織が未成熟なので、眼圧が高いと内側からの圧力によって、眼球が拡張して突き出してくることが多くなります。その様子がウシの眼に似ていることから、このように呼ばれるようになったのでしょう。
家畜の中では、馬は牛以上に大きく突き出た目をしていますが・・・「馬眼」とならずに「牛眼」となったのは不思議ですね。
それについては、歴史的エピソードをたどってみるとよいでしょう。紀元前490年のマラトンの戦いでは、アテネの兵士フェディオビデスが、軍装のまま城門まで走り続け、味方の勝利を絶叫して息絶えたといわれています。マラソンの起源になった出来事です。なぜこのときフェディオビデスは早馬に乗らず、自ら走ったのか…古代ギリシアではまだ軍馬がほとんど存在していなかったことをうかがわせます。
そうなのですね。馬の家畜化は歴史的にやや遅かったのでしょうか。
当時ウシが全世界的に家畜化されていたのに対し、ウマは北アジアや北ヨーロッパで家畜化されていたに過ぎません。もう少し後の時代、紀元前336年、マケドニアにアレクサンダー大王が登場し、ウマの機動力を大いに活用して大帝国を築き上げていきます。 それ以前のギリシア人は、海軍と重装歩兵陸軍とで地中海沿岸領域だけを制圧しようという小市民的な考え方をしていたのです。
つまり「馬眼」ではなく「牛眼」と呼ばれたのは、牛の方が家畜として知られていたからということでしょうか。
そうですね。当時は、ヒポクラテスなどによって花開いたギリシア医学全盛の時代ですが、ウマにはまだ馴染みが薄く、大きな目の持ち主といえばウシしかいなかったのです。「牛眼」という病名が使われたのも当然かもしれません。
(原作:医学博士 武藤政春)
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ムトウ先生、眼の病気で「そこひ」という言葉を耳にしました。これはどういうものですか?
目の病気の呼称として日本人に古くから使われてきた言葉ですね。江戸時代は、目の病気を「そこひ(底翳)」「うはひ(上翳)」の二つに分けて考えていました。「うはひ」はものもらいなど外から見て分かる、いわゆる外眼部の疾患、「そこひ」は外からはわかりにくい内眼部の疾患をさしていました。
今でいう白内障を「しろそこひ」と呼びます。人間の瞳孔は元来黒く見えますが、白内障は目の中の水晶体が白く濁るので、瞳孔が白く見えるわけです。また、「あおそこひ」と呼ばれる緑内障は、眼圧が高くなり、視神経が圧迫され障害を受ける病気です。眼圧が高くなると角膜が水膨れを起こし、そのため瞳孔を見るとどんよりと緑色がかって見えます。
「そこひ」という言葉の語源は何なのでしょうか。
その問題の前に、中国では眼の病気をどのように言っていたかについて触れましょう。眼の病気に対する呼称はさまざまな変遷を経て、次の二つに分けて考えられていったようです。
内障眼(ネイツァンイェン)
外障眼(ワイツァンイェン)
内障眼とは眼球内の病気、外障眼とは眼球外の病気のことです。内障眼は瞳孔の色で更に分類されていました。日本でいう「しろそこひ」は「銀風内障」、「あおそこひ」は「青風内障」といいました。そして時代が経つにつれ、「内障」という言葉は、中国では専ら「白内障」だけに用いられ、緑内障のことは「青光眼」と呼ぶ様になってきています。
「白内障」という名称のルーツはそこから来ているのですね。
話を「そこひ」の語源に戻しましょう。「そこひ」という言葉自体は、日本に古くからある言葉で、底知れぬ程深い底などを意味します。そしてこれは、多少神秘的なニュアンスを含んだ言葉です。
昔の人々にとって白内障や緑内障はどのような病気であったでしょうか。けがをした覚えはない、熱病にかかったわけでもない、それなのに知らず知らずのうちに眼が見えなくなっていく。何となく不思議であり不気味であるが、ともかく眼の奥底からの病気なのだろう。 そのような病気に対して、多少神秘的な不気味さをこめて「そこひの病ひ」という言い方がなされたのではないでしょうか。そしていつしか「そこひ」だけで眼病を意味して使われるようになったのではないかと思います。
(原作:医学博士 武藤政春)
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ムトウ先生、トンボといえばあの大きな目が特徴的ですよね。トンボはなぜ、あのような姿をしているのでしょう。
顔からはみだしてしまうような大きなメガネのことを「トンボメガネ」といいますが、トンボの目の大きさをよく言い表していますね。トンボは、おそらく現存する動物の中で、頭部の大きさに比べて最も大きな目を持つ動物だといえるでしょう。
トンボの目は複眼といって、一万個以上の小さな個眼が集まって出来ているのですよ。
ひとつの大きな眼というわけではないのですね。どうしてそんなに多くの個眼が必要なのでしょう。
草食生活の昆虫が多い中、トンボは肉食の昆虫なのです。トンボは時速30キロというスピードで飛びながら、足と足に生えるトゲで網のカゴを作り、小昆虫を捕らえて食べています。ですから、草食昆虫に比べると、より鋭敏な感覚を持っていなければ生きていけません。 トンボの目はただ単に大きいだけでなく、側面についていて、しかも突き出ています。形感覚はもちろんのこと、自分の周囲すべてが見通せる広い視野が得られ、獲物を探して捕らえるには非常に都合の良い目なのです。
あの独特の目も、トンボにとっては生きていくうえで大切な武器のようなものなのですね。
また、トンボはこの二つの複眼のほかに三つの単眼を持っています。単眼の働きは「見る」ためではなく、「生物時計(体内時計)」を働かせるためについているようです。
単眼は、周囲の明るさだけを感知して、明け方、日中、夕暮れという明るさの移り変わりを認識します。トンボだけでなく、昆虫はこのような小さな単眼をいくつか持っています。
昆虫だけがそのような単眼を持っているのでしょうか?
ヒトも含めた脊椎動物には、生物時計を働かせる役目の「第三の目」がないかというと、決してそうではありません。ヒトも第三の目の痕跡を持っていますし、脊椎動物の中には実際に第三の目を持っているものもいるのですよ。
(原作:医学博士 武藤政春)
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関ケ原の戦いは、今年映画にもなりましたが、西軍に大谷吉継という武将がいましたね。頭巾をかぶった異様な風体に驚きました。
大谷吉継は九州大友家の家臣でしたが、大友家滅亡により流浪の身になり、やがて石田三成の推挙により秀吉に仕えるようになった武将です。のちに越前敦賀領主となりましたが、三十歳頃にハンセン氏病を病み、両眼を失明してしまったのです。
では関ケ原の戦のときにはすでに視力を失っていたのですね。
1600年の上杉征伐に家康が出陣する時、これに従軍するつもりで国を出た吉継は、石田三成から家康に対して戦いを挑むことを打ち明けられ、味方になってくれるように頼まれたのです。
その時吉継は既に両眼とも見えなくなっていましたが、世間を見通す目は確かでした。三成が家康に歯向かっても勝目がないということは知っていたでしょう。それでも三成の軍に参加したのは、ひとえに三成に対する恩義からでした。
豊臣秀吉の家臣に推挙してくれたことへの恩義ということでしょうか。
こんなエピソードがあります。豊臣秀吉在世の頃、大阪城で茶会が開かれたときのことです。当時吉継はハンセン氏病を病んでいました。茶会では、秀吉がたてた茶を居並ぶ武将達が一口ずつ飲み回していましたが、吉継から茶碗が回ってくると、武将たちは飲むのをためらい、飲むしぐさだけして「結構な味でございます」などと言っては次へと回していました。しかし茶碗が三成のもとへと来たとき、三成は表情も変えずにゴクゴクとその茶を飲みほしてしまったといいます。
三成の人柄がしのばれますね。吉継はどれほどの思いでそれを見ていたことでしょう。
この時の恩を吉継は終生忘れなかったといいます。そして関ケ原では、寝返り相次ぐ西軍の中にあって、最後まで戦い抜いたということです。
(原作:医学博士 武藤政春)
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ムトウ先生、有名な「兎と亀」の昔話は随分と古くから語られてきたそうですね。
そうですね。「兎と亀」の話はビザンチン文化圏で発祥し、その後アジア、アフリカ、アメリカへとひろまっていったそうです。カメといえば日本では「浦島伝説」も有名ですが、こちらは日本書紀に載っているほど古くから日本に伝わる昔話です。ところで、古代日本人の思考の中で、なぜカメと海中の楽園が関連付けられたのでしょう。
考えてみればそうですね。何か理由があるのでしょうか。
海ガメの産卵では、ふ化した海ガメの子ども達は、誰に教えられたわけでもないのに一目散に海を目指して歩き始めます。一心不乱に海を目指す姿からは、海の中にはさぞ素晴らしいものが待っているに違いない、と思えてきます。きっと古代の人々にもそう思われたのでしょう。
海ガメの子どもが海を目指して行けるのは、光の反射する海面の明るさと、地面の上の明るさのちがいを感知しているからという説が有力ですが、まだはっきりとはわかりません。
海ガメは産卵のときには生まれ故郷の浜に戻ってくるそうですね。大洋を大回遊しているというのに、何を頼りに故郷に戻ることが出来るのでしょう。
臭いの物質を道しるべにしている、太陽をコンパスにして行動している、一定の水温の海域を泳ぐようにしているなど、さまざまな説があります。しかし、いずれもまだ十分な解答にはなっていません。 「兎と亀」の話のなかで「どんくさい」動物とされているように、カメは運動面でも感覚面でも鋭いところは何一つありません。その目は視神経乳頭耳側に円形中心野を持ってますが、中心窩までは分化していませんから、視力もとりわけよくはありません。眼球は結構動きますが、視界はそれほど広くはありません。カメにとって唯一の特技といえるのが、いざというときに、首と手足を甲羅の中に引っ込めて身を守れることです。
「どんくさい」はずのカメが、どうやって大洋の大回遊を行い、生まれ故郷の浜に帰ってこられるのか、生まれたばかりの子ガメがなぜ一目散に海を目指していけるのか、まだ定説はないのですね。いずれはその謎を知りたいものです。
(原作:医学博士 武藤政春)
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この前渋谷に行きましたが、ハチ公前の待ち合わせはすごい人混みでした。ハチ公像は昭和9年に建てられたそうですね。
忠犬ハチ公は日本人に長く愛されてきましたね。ただ、戦前の修身教育によって実際よりも美談に仕立てられたようではありますが。
ところで、この話の主人公がイヌでなく、ネコだとしたら誰もこの話を信じることはなかったでしょうね。ネコはエサをもらうために媚びることはあっても、心から飼い主に服従することはありません。それに対し、本来群れをなして生活する動物であるイヌは、飼い主を群れの上位者とみなし、主人に忠義を尽くします。
どちらも人と一緒に生活する動物でありながら、対照的ですね。
ネコとイヌは狩りの仕方にも相違点があります。どちらも狩りは夜行いますが、ネコは待ち伏せるハンターで、イヌは追いかけるハンターです。この違いは、感覚器官の鋭敏さの違いに関連します。
ネコの目は網膜外層に反射層があるなど、暗闇でもよく見える工夫がいくつもあります。イヌの目は反射層の存在する領域はずっと狭く、暗闇での視力はネコの方がずっとよいと思われます。イヌはネコのように暗闇で獲物を見つけるのは困難でしょう。
そうなのですね。ではイヌは、狩りの時はどうするのですか?
イヌが持つ強力な武器は嗅覚です。「鼻で物を見る」といわれるイヌはヒトの百万倍以上の嗅覚を持っています。何キロメートルも離れた遠くの獲物を探知し、その臭いを道しるべに追いかけるのです。
警察犬など、イヌの嗅覚は人間の役にも立ってくれていますね。
イヌが警察犬として活躍する端緒をひらいたのは小説家のコナン・ドイルです。彼は著作「パスカヴィル家の犬」の中で殺人計画に犬の嗅覚を利用する方法を採り入れています。この小説がヒントとなって、犯罪ではなく犯罪捜査に犬を使うことが考えられ、スコットランドヤードに警察犬が登場するようになりました。そしてやがて世界中で、犯罪捜査にイヌが活躍するようになったのです。
(原作:医学博士 武藤政春)
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藤原道長といえば「この世をば我が世とぞ思ふ望月の〜」の歌で有名な平安時代の権力者ですが、実は糖尿病に苦しめられていたのを知っていますか?
知りませんでした…そのようなことがわかるのですか?
道長の日記『御堂関白記』や同時代の貴族の日記に、道長が昼夜の別なく水を欲していたという記載があり、道長は糖尿病だったに違いないと信じられています。
そして重い眼病にも悩まされていたようです。『御堂関白記』には「目が暗い。お祓いをしたが明るくならない」「二、三尺隔てた人の顔も見えない」など視力の低下を嘆く様子が記されています。おそらく糖尿病による白内障や網膜症だったのでしょうね。
栄華を極めた権力者も病には悩まされたということですか。
当時、藤原一族には、糖尿病や眼病の者が数多くいたのですが、道長は、自分の眼病について「たたり」ではないかと考えていたようです。
道長というとエリートですんなり栄光の座についたように思われがちですが、彼は五男であり、兄弟との権力争いの果てにその座をもぎとった人物です。道長が確固たる権力者の地位についたのはかなり晩年のことであり、それまでに邪魔な身内をでっちあげの嫌疑で告発・左遷せしめたり、言うことをきかない三条天皇を退位に追い込んだりしてきました。
三条天皇は「心にも あらで憂き世に ながらへば 恋しかるべき 夜半の月かな」という、世をはかなむ歌が有名な方ですね。
三条天皇は40歳にして殆ど視力を失っていました。道長は自分の孫を皇位につけて自らは摂政になりたいと考え、三条天皇に対して「そんな目では天皇としての仕事に差し障りがある」といびり続けたようです。耐えきれなくなった三条天皇の退位で道長は念願を叶えたものの、今度は自分が眼病に悩まされるようになり、視力を失っていったのです。
因果応報というか、道長が「たたり」と考えたのも無理からぬことですね。
道長は、晩年に出家し、自ら建立した法成寺の阿弥陀堂に籠ってお経を読んで暮らしたといいます。最後には阿弥陀仏と自分の指を七色の糸で結び亡くなったそうですが、はたして極楽に行けたのか否かは知る由もないですね。
(原作:医学博士 武藤政春)
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ムトウ先生、先日のように過去の偉人の目について考えていくのは面白いですね。日本の有名な文学者などはどうでしょうか。優れた書物を書き残しているのですから目も良かったのでしょうか。
そうですね…では今回は兼好法師について考えてみましょう。「徒然草」が書かれたのは兼好法師が48歳か49歳の頃と考えられています。「徒然草」の七段で、長くても40歳前に死ぬのが見苦しくないものだ、と述べていますが、これを書いていた頃にはゆうに40歳を過ぎていたわけであり、最終的には70歳近くまで生きたわけです。
「徒然草」をひもといていくと、兼好の目がどんな目であったか何となく類推できますよ。
たとえばどのようなものですか?
十三段で「ひとり燈火のもとに文をひろげて、見ぬ世の人を友とするこそ、こよなう慰むわざなれ(ただ一人灯火のもとに書物を開いて昔の人を友とするのが格別心なごむことだ)」と述べています。50歳近くなって灯火のもとに読書を楽しめたということは、老眼鏡がなかった時代であることを考えると、彼は近視だったのではないかということを類推させます。
近視ですか。書物を読むのも書くのも、さほど不自由がなかったのですね。
四十三段では「東に向きて妻戸のよき程にあきたる、御簾の破れより見れば、かたち清げなる男の、年二十ばかりにて、うちとけたれど心にくくのどかなるさまして机の上に文をくりひろげてみゐたり」と記述しています。これなどはかなり遠方を詳しく描写していますので、強度近視であったとは思われないですね。
兼好はおそらくマイナス1〜2Dくらいの軽度近視だったのではないかと思われます。
近視の度合いまで推し測ることができるのですね。ほかの文学者についても考えてみると面白そうです。ぜひまたお話を聞かせてください。
(原作:医学博士 武藤政春)
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ムトウ先生、聞くところによると、人間の目は1分間に20回もまばたきをしているのだそうですね。一方、動物のまばたきというのはあまり見ないような気がします。
一般にヒト以外の動物は、ヒトほどまばたきをしません。顔面神経麻痺によって閉瞼が不能になり目が充血した状態を「兎眼」といいますが、実際にウサギはほとんどまばたきをしないのです。
動物はまばたきをしなくても大丈夫なのでしょうか?
ヒト以外の動物がまばたきをしない大きな理由のひとつは、「第三のまぶた」と呼ばれる瞬膜があることです。この瞬膜は、ヒト以外のほとんどの動物に見られ、上下のまぶたによるまばたきの代用をしています。また、瞬膜はさまざまな役割を持っています。人間生活における眼帯やサングラス、ゴーグルのような役割です。
ずいぶん万能なのですね。具体的にはどのように作用しているのですか?
例えば角膜に傷が出来ると、しばらくの間は瞬膜が角膜をすっぽり覆った状態になります。人間が抗生物質の軟膏を塗り眼帯をした状態と同じですね。
また、ネコは長期間の下痢などで体力が落ちると、瞬膜が眼を覆います。目の中に入る光の量を減らして、ロドプシン(脊椎動物の視物質の中枢色素で視紅ともいう。感光によって視神経を興奮させる役割をもつ)の消耗を避けているのでしょう。
鳥も飛行中は、風やゴミが直接目に入らないように瞬膜が覆っています。ちょうど人間がサングラスやゴーグルをかけるのと同じですね。
瞬膜がまばたきの代用をしてくれることが、動物のまばたきが少ない理由なのですか?
一般に、ヒト以外の動物の痛覚が鈍感であることも関係しているでしょう。まばたきは目の乾燥感によって導かれることが多く、その乾燥感は痛覚神経によって伝達されます。痛覚が鈍感な動物はあまり乾燥感を感じず、まばたきの回数が少なくなるのでしょう。
それと同時に、まばたきの回数が少なくても済むような、角膜の生理学的な違いや涙液性状の違いがあるのかもしれませんね。
(原作:医学博士 武藤政春)
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美術展でゴッホの作品を見てきました。絵画というのは、画家や時代によってさまざまな画風があり、とても面白いですね。
画風といえば、アメリカの眼科学会で、独特の画風を持つ画家たちは実は眼病持ちのためにそのような画風となったのではないか、という説が発表されたことがあります。例えば、ルノワールの絵は輪郭がボーッとしているが、これはルノワールが高度近視であったために物がはっきり見えなかったためではないか、などです。
そんなことは考えてもみませんでした。他の画家についても言われているのですか。
他の画家についてもいくつか説が述べられています。たとえば…
・レンブラントは百枚以上の自画像を描いているが、これを年代順に見ていくと、初期には細部まで明瞭であったものが、年とともにボケた絵を描くようになっている。これは遠視があって、それに老眼が輪をかけたのではなかろうか。
・ゴッホの自画像を詳細に見ると、左右眼の瞳孔の大きさが違う。また、光の周りに暈(かさ)が描かれているものが多い。これは緑内障で出やすい症状であり、ゴッホは緑内障であったのではないか。
それは本当なのでしょうか?
これが適切な指摘かどうかについては一考が必要です。
レンブラントに対する推測は恐らく妥当なところでしょう。ゴッホに対する指摘も当たっているかもしれませんが、そうでないかもしれません。光の周りの暈は、彼の狂気からの幻想のためかもしれませんからね。
ルノワールに対する推測ははずれだと考えます。彼の絵の輪郭は、印象主義の影響を受けていたためですし、「ムーラン・ド・ガレット」などは遠景まで細かく描写されており、高度近視の眼では描けなかった絵のはずです。
そうですか。当らないにしてもなかなか面白い考え方ではありますね。
さまざまな視点から過去の「偉人の目」について考えるのも、大変興味深いことですね。またそのようなお話もしていきましょう。
(原作:医学博士 武藤政春)
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前回に続き、ナマケモノの話ですね。感覚面、運動面であまり取柄のないナマケモノが今日まで種族を絶やさなかったのはなぜでしょうか。
それは、ナマケモノが専守防衛に徹底しているからかもしれません。ナマケモノは、他の動物の注意を引き付けないように心をくだいています。昼間は全くといってよいほど動かず、夜動くときは静かにゆっくりと動きます。
また、ナマケモノは木の上からフンをしますが、フンの落ちる音や臭いで自分の存在が悟られないようにするため、主に雨の日にしか用を足しません。
そんなことまで気を付けているのですか!ではナマケモノは敵に襲われることはないのでしょうか。
用心を重ねていても、襲われることもあります。敵に襲われると、普通の動物は必死に逃げるか抵抗しますが、ナマケモノは逃げもせず歯向かうこともしません。
逃げることさえせずに、どうするのでしょうか。
強い爪を食い込ませて、ひたすら木にしがみつきます。こうなるとタカでも木からはがせないといいます。ここでものをいうのが体の頑丈さです。厚くて丈夫な毛皮と皮膚、強いカゴのような肋骨に守られているので、木にしがみついてさえいれば、多少のかすり傷で済んでしまいます。あとは敵があきらめて去るのを待つだけです。
ナマケモノを見る目が変わりそうです。ただじっとしていることも筋金入りというわけですね。
(原作:医学博士 武藤政春)
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毎日暑いですね。つい、冷房の効いた部屋でじっとしていたくなってしまいますね。
まるでナマケモノのようですね。中南米の森林に生息するナマケモノは、木の枝にぶら下がったままほとんど動かず、セクロピアの葉などを食べて毎日を過ごしています。私はナマケモノにまだ会ったことはありませんが、なぜか親近感を覚えるのですよ。
木の枝にぶら下がり続けるのも大変な気がしますが、ナマケモノは平気なのでしょうか。
ナマケモノの体は、大変頑丈にできています。肋骨はしっかりとくっつき合い、胸を取り巻いていますし、頸椎骨は九本もあって首を一回りしています。皮膚も厚く、毛は二層に生えています。強いカゴのような骨組み、厚く丈夫な毛皮と皮膚で、体がしっかりと保護されているのですよ。
ナマケモノの視力や観察力はどうですか?ヒラメのように、動かなくても周囲をレーダーのように観察しているとか?
残念ながら、ナマケモノは感覚面ではあまり取柄がないようです。まず、視力はそれほどよくありません。例えば、迷子になった子どもに腕を差し出すとき、すぐ近くにいるのにあらぬ方向に手を差し伸べたり、木に登っているときも、とんでもない方に手を伸ばして、ありもしない枝をつかもうとしたりします。
身を守るために、黒い影が動くことだけには敏感なようですが、形態覚はよくないようです。聴覚や臭覚も、視覚よりはましなようですが、やはりそれほど鋭敏ではありません。
運動機能面では、感覚よりもさらにひどいようです。逃げ足も遅く、最ものろまな動物の一種といってもよいし、敵と戦う有効な武器も持っていません。
そうなんですね…。優れた身体機能を持つ動物が数多いる中で、どうしてナマケモノが今日まで種族を絶やすことなく生き延びてきたのか、かえって不思議になってきます。
そのことにもちゃんと理由があります。では、次回はナマケモノが生き延びてきたワケについて、お話しすることに致しましょう。
(原作:医学博士 武藤政春)
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前回に続き、ねぶた祭が行われる青森市のお話ですね。
青森県というのは、明治4年に5つの藩が合併してできた県です。うち弘前藩と八戸藩が大藩でしたので、その城下町である弘前・八戸のいずれかに県庁が置かれるのが妥当なはずでした。ところが、一漁村に過ぎなかった青森に県庁が置かれることになったのです。
実に異例のことだったのですね。どのような理由があったのでしょうか。
ひとつの説明として、青森が北海道開拓の基地として交通の要衝であったことがあげられます。しかしそれだけではなく、もう一つの大きな理由があったのです。
1571年、現在の青森県・岩手県の領域を事実上支配していたのは南部氏です。しかし南部氏では次の当主の座をめぐって内紛が続いていました。その状況の中で、それまで南部氏の支配下にあった津軽為信は南部氏の群代を奇襲し、独立を宣言します。
1571年といえば、織田信長の時代ですね。その11年後に本能寺の変が起きています。
そうですね。津軽為信は常に中央の動向を観察しており、秀吉がやがて天下人になるであろうことを察していました。そして1589年、秀吉が小田原討伐のために京を発つと、わずか18騎だけを引き連れて急ぎ駆けつけ、秀吉に謁見し、津軽3郡の領有を認める旨の朱印安堵状を手にします。南部氏も小田原に参陣したものの、時すでに遅く、津軽為信が朱印状を手にした後のことでした。
南部氏の側から見ると、してやられたというところですね。
明治になり、そのような因縁を持つ弘前津軽藩と八戸南部藩が合併したわけです。領地比率でいけば弘前藩の方が広く、弘前藩では県庁所在地として弘前を要求しました。しかし八戸藩では、自らが本家筋であるとの意識が強く、これを呑むことをしませんでした。
この両者の折り合いがつかず、折衷案として青森が県庁所在地に決められたという経緯もあるようです。
現在、青森市で勇壮なねぶた祭りが見られるのは、300年にわたる南部氏と津軽氏の確執があったおかげなのかもしれないのですね。
(原作:医学博士 武藤政春)
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ムトウ先生、夏は各地で華やかな夏祭りが行われますね。
華やかな夏祭りというと、東北地方の祭りが思い浮かびますね。仙台七夕まつり、秋田竿燈まつり、青森ねぶた祭の三大祭は、ぜひ行ってみたいものです。特にエネルギッシュな夏祭りとして有名なのは、青森市のねぶた祭りと弘前市のねぶた祭りですね。
ねぶた祭りといえば、大きな燈篭のまわりを「ラッセー、ラッセー、ラッセッセー」と踊って練り歩く光景が有名ですね!
ねぶたは、盆に家々に迎えた先祖の霊を燈籠とともに送り出す灯籠流しがその起源となっています。灯籠流しには、罪や汚れをも送り出してしまう意味がこめられていますが、「ねぶた祭り」には、「ねぶた」を追い払う意味がこめられているのですよ。
「ねぶた」というのは「ねむた=眠たい=睡魔」という意味なのです。睡魔を追い払うためにも、目の覚めるような、派手な大きな人形燈篭が必要なのでしょう。
ねぶた祭りにはそのような意味があったのですね。
8月といえば、労働が厳しく、眠気に襲われやすい季節ですが、1年の3分の1を雪に閉ざされる津軽の人にとっては、夏の間にしっかり働いておかねばならず、疲れた体にムチ打って、睡魔を追い払おうというわけです。
華やかな祭りの陰には、雪深い里に住む人々のやるせなさが漂っているようでもあり、「ラッセ、ラッセー」という勇ましい掛け声も、どこか物悲しく聞こえるようにも思えますね。
ねぶた祭りは、古くから行われていた祭りなのでしょうか。
弘前市のねぶた祭りは少なくとも二百年以上の歴史を持っています。対して、青森市のそれはずっと歴史が浅いのです。青森市は、明治に至って青森県の県庁が置かれてから発展してきた町であり、明治維新までは津軽藩の一漁村に過ぎませんでした。大きな祭りが行われる程の人口ではなかったのです。
明治維新後の廃藩置県で県庁が置かれたのは、その地方の中心地であった城下町や、商業的に栄えた港町・宿場町などでした。そのいずれでもない青森市に県庁が置かれたのは異例ともいえます。次回はその歴史について振り返ってみましょう。
(原作:医学博士 武藤政春)
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フクロウというのは、平和な可愛い顔をしていますね。猛禽類とは思えないほどです。
人間に観察されているときのフクロウは、いつも眠そうな細い目をしていますね。人間がフクロウを観察できる明るさは、フクロウにとっては明るすぎるのです。フクロウは日中は木の枝に止まって眠り、暗くなると目を覚まします。闇の中で聞き耳をたて、ネズミやウサギなどがちょっとでも動くと、その気配を聞き逃さず、羽音もたてずに襲いかかって捕まえ、食べてしまいます。
闇の世界で活躍するハンターですね。フクロウの目は暗い中でも見えるのでしょうか。
暗い所で行動する夜行性の動物は、聴覚や嗅覚が非常に発達しています。フクロウの場合、聴覚のみでエサを察知できることが実験的に知られています。では視覚はどうなのかというと、かすかな明るさの中でも視覚が十分機能する工夫が施されています。フクロウといえば、大きな目が特徴的ですね?
あの大きな目は可愛いですが、それも暗闇で獲物を捕らえるためのものなのですね?
フクロウの目は、脳の大半を占めるほど大きな目をしています。あまりに大きいので、眼球の一番外側の層を包み込む強膜が、頭骨と癒着してしまっているほどです。このため、眼球は全く動きませんが、限られた光を多く採り込めますし、前方を両眼視してよく見えるようになっています。しかも首が柔軟なので、左右に270度ずつ回転し、瞬時に真後ろも見ることが出来ます。
暗い所でフクロウに狙われたら恐ろしいですね。眼球の構造にも特徴があるのですか。
フクロウの目は水晶体と眼底の距離が長く、目に映る映像はより拡大されて眼底に投影されます。水晶体が厚く、比較的近方に焦点を合わせた目になっています。水晶体による調節力はあまりなく、ヒトのように調節を水晶体だけに依存しているのであれば、ごく近方はよく見えないことになります。しかしフクロウは角膜の曲率を変化させる特殊な筋肉を持っています。ごく近方を見るときは角膜の屈折力を変えて調節を行います。
夜になると「鳥目」になるほかの鳥類と違って、フクロウの網膜は少量の光に反応する視細胞で構成されています。夜間に獲物を追いかける動物として理想的な目を持っていると言えるでしょう。
(原作:医学博士 武藤政春)
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ムトウ先生、ワニは獲物を食べるとき涙を流しながら食べると聞きましたが、本当ですか?
ヨーロッパでは長い間、ワニは神の化身であり慈悲深い動物で、獲物を食べるとき慈悲の涙を流すと言い伝えられてきました。しかしこの涙は、ワニの目の優れた構造によるものなのですよ。
水中に潜ったり水面に現れたりするワニの生活に関係するのでしょうか。
ワニは潜水艦のような動物です。水中の魚介類も食べますが、それだけでは食欲が満たされず、むしろ水辺を訪れる鳥や動物を主食にしています。水辺近くの水中に身を潜め、水辺に来た獲物を水中に引き込み、溺死させて食べてしまうのです。
ワニの目は頭のてっぺんについていて、水中に潜んでいても目だけは水面上に出て周囲の観察ができます。ワニの目は空気中でほぼ正視、水中では強度の遠視になります。つまり水中よりも空気中を観察するのに適した目なのです。
水上を見る方が得意なのですね。他にどのような特徴があるのでしょうか。
ワニの瞳孔は、ネコと同じように縦長のスリット状に縮瞳します。円形の瞳孔に比べて横幅をより狭くすることが可能で、太陽光が反射する水面上では、まぶしさを避けられて非常に都合が良いのです。
またワニのまぶたは、カエルと同じように下から上に閉じるので、目を半分閉じていれば水が入りにくい構造になっています。さらにまぶたの皮膚が非常に薄いので、獲物をくわえて水中にもぐり目を閉じていても、うっすらと見えているのです。
涙を流すというのは、そのような目を保護する働きのひとつなのでしょうか。
ワニのまぶたには細長い瞬膜(しゅんまく)がついています。この瞬膜は、車のワイパーのように左右によく動き、角膜上の余分な水分をふき取ります。そのため、ワニが獲物をくわえて水中から水面に浮かび上がっても、すぐに良好な視界が得られるというわけです。
瞬膜のワイパーが作動して角膜上の余分な水分をぬぐっているのが、人間にはワニが涙を流しているかのように見えたのでしょうね。
(原作:医学博士 武藤政春)
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今回はスパイの話をしましょう。「壁に耳あり、障子に目あり」という言葉がありますが、秘密を覗き見るという意味で、スパイには「目」のイメージが合いませんか?
映画の様な話ですね!現代風にいえば『007』のジェームズ・ボンドのような感じでしょうか。
非公式の情報収集家、即ちスパイという者は、いつ頃からこの世に登場するようになったのか見てみましょう。スパイが登場するには二つの条件があります。一つはスパイの必要性、つまり支配者が被支配層の監視や外国の情報収集を行いたいなどの場合です。もう一つはスパイが暗躍できる場、つまり様々な「人種」が混在し身を隠しやすい大都市です。
なるほど。歴史上、二つの条件が揃った場所、時代というと・・・?
古代の文明に遡ってみましょう。古代エジプトでは、王の権威は絶対であり、国は海と砂漠に囲まれた閉鎖的な地域でしたから、スパイの必要も存在もなかったと思われます。
ではメソポタミアではどうでしょう。ハムラビ王の時代以降、抗争が続いたこの地では、戦争の結果として勝者が敗者を自国に連れ帰ることが普通でした。これは、被支配民族をそのままにして監視・支配していくことに自信が持てなかったということではないでしょうか。裏返せば、情報収集・監視体制・スパイ機構というものが確立してはいなかったのでしょう。
ではスパイの登場は、もう少し時代が後になってからになるのですね。
紀元前525年、メソポタミアの諸国家やエジプトをも平らげて、空前の大帝国を成立させたのがペルシャです。ペルシャは被支配民族を自国に連れ帰ることをせず、それぞれ総督を任命して統治させました。さらに「王の目・王の耳」と呼ばれる監督官を設け、公式および非公式に各地の監視にあたらせます。これが、西洋史上にはっきりと姿を現してくるスパイの始まりとなります。
ペルシャ帝国からスパイの歴史が始まったのですね!中国や日本はどうだったのでしょう。
中国では奇しくも同じ頃、戦国時代となりスパイが登場しています。そのようなスパイのテクニックは日本にも伝わりましたが、スパイが暗躍するだけの社会情勢が長らく到来せず、日本におけるスパイの暗躍は、十六世紀、戦国時代に突入して以降のこととなったようです。
(原作:医学博士 武藤政春)
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先日テレビで鵜飼い漁の様子を紹介していました。水中で見事に魚をとらえるウは、やはり漁に適した目を持っているのでしょうか。
ウは鳥類なのに、空を飛ぶことよりも水に潜る方が得意です。ウの巣は高い岩場や木の上にありますが、仕事場は海や川です。一般的に鳥類の羽は油性が強いのに対し、ウの羽は油性が少なく親水性が高くなっています。潜水して泳ぐのには好都合ですが、陸に上がった後は濡れた羽を乾かすのに時間がかかり、なかなか飛行態勢がとれません。そこで簡単に人に捕らえられてしまうのです。
ウミウを捕らえて飼いならし、川でアユ漁などに使う「鵜飼い」は古事記にも記述があるほどの伝統と歴史があります。十数羽のウを携えた一隻の船で、一晩に百匹近くの収穫が得られるそうです。
ウは漁の名人なのですね。それはどのような要因によるものなのでしょうか。
水に濡れやすい羽、捕らえた魚を逃がさない先が鍵形に曲がったくちばしなどは大きな武器です。中でも最も大きな武器となっているのは、目なのです。
例えばヒトの場合は、空気中では正視ですが、水中では遠視となってよく見えません。大部分の爬虫類や鳥類、哺乳類は、目のレンズの厚さを変えることによってピントの調節を行っていますが、最も優れた調節力を持っているのは、おそらくウでしょう。ヒトの目の五倍もの調節能力があります。
私たちが水中ではよく見えないのに対して、ウは水中でも陸上と同じようによく見えるということですか?
そうですね。水面上で水中の獲物を探しているときも、水中に潜って魚を追いかけているときも、どちらの場合もウは、豊かな目の調整力によって物がはっきりと見えているはずです。 しかし、この一番の武器である優れた目の調節能力も、ヒトが年をとって調整力が衰え老眼になるように、ウも年老いると老眼になっていて、鵜飼いには適さなくなるかもしれませんね。
(原作:医学博士 武藤政春)
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前回は、関ケ原の戦いにおける長州藩のお話でした。一方、「目利き」であったという薩摩藩はどうだったのでしょうか。
薩摩の島津義弘は、やむをえず西軍に参加した事情があり、戦場では自らは打って出ず防戦に徹します。そして西軍の敗北が決定的になったとき、家康の本陣のある方向へ、つまり正面突破での遁走をはかります。家康もびっくりしたことでしょう。戦後、島津は西軍に与した事情を言い訳する一方、軍備を整え征伐に備えました。西軍方でありながら、薩摩は減封を免れています。家康の脳裏に、自分の本陣間近を突破していった島津の恐ろしさが残り、敵にまわすことをためらわせたのかもしれませんね。
長州と薩摩といえば、ともに明治維新に大きく関わった藩でもありますね。
そうですね。しかしその過程をみると微妙な違いがあります。幕末の政変劇の経過の中で、薩摩藩はほぼ一貫して主流派に位置していたのに対して、藩論が右に左に揺れ動いていた長州は時に傍流に追いやられ、一時は朝敵とまで名指しされます。
安政の大獄の時には、長州は幕府の要求に応じて吉田松陰を差し出し、貴重な人材を失っています。同じ安政の大獄で、西郷隆盛を要求された薩摩は、西郷は既に死んだとウソの報告をしています。
維新後の日本陸軍は主に長州軍閥に支配されていたと思うのですが。
日本陸軍の基となる近衛を編成したのは西郷隆盛でした。近衛は薩摩、長州、土佐、肥前の藩兵で主に構成されていました。しかし征韓論で破れた西郷は鹿児島に帰り、薩摩人の多くは彼に従って帰郷してしまい、以降は長州軍閥に支配されることになります。
西郷隆盛が下野せずにいたら、その後の歴史にも影響があったかもしれませんね。
そうかもしれませんね。ただ、いうまでもありませんが、現代の山口県人の人たちは皆、鑑定眼のしっかりした方達ばかりですよ。
(原作:医学博士 武藤政春)
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