「目」と「鼻」は仲良し?2/2

  • 2016.09.30 Friday
  • 16:20

「目から鼻へ抜ける」の語源って?  目と鼻(2)

 


回お話しいただいた「目鼻立ち」「目鼻がつく」というのは、イメージしやすい言い方ですね。
「目」と「鼻」を使った言葉の中で、「目から鼻へ抜ける」という言葉は、どうしてそんな表現をするのかわからないのですが?

 

怜悧で物事の判断が素早い人に対して使われる言葉ですね。
次のような説があります。昔、奈良の大仏の目がポロリと取れてしまったことがありました。その時修理を命じられた男は、するすると上って入って、外れた眼の穴から中に入り、中から目のふたをしたそうです。
見ていた者たちが、内側からふさいで一体自分はどうやって出るつもりなのだろうと案じていたところ、

男はほどなく大仏の鼻の穴から出てきたそうです。以後、機転のきく者に対して使われるようになったといいます。
ところで、わたしたちの体の成分で、実際に「目から鼻に抜けていく」ものがひとつありますが、何だかわかりますか?

 

 

かりますよ…!涙ですね。

 

泣いたときは目を拭くだけでなく、鼻もかまなければなりませんよね。

涙はうわまぶたの耳側にある涙腺から主に分泌され、まばたきによって目の中を循環し、まぶたの鼻側にある穴から鼻涙管という管を通って鼻に抜けていきます。涙はその過程の中で、眼の乾燥防止、角膜コーティング作用、角膜への栄養供給、細菌などに対する抵抗力などの役割を果たしています。

 

 

には重要な役割があるのですね。そして「目」と 「鼻」は本当に仲良しなんですね!

 

面白いことに、大学の研究室の配置なども「眼科」と 「耳鼻科」は仲良く近くに接していることが多いんです。耳鼻科の研究室を訪ねて迷ってきた人にはいつもこう案内していましたよ。「つい目と鼻の先のあそこです。」

 

(原作:医学博士  武藤政春)

「目」と「鼻」は仲良し? 1/2

  • 2016.09.30 Friday
  • 16:18

「目」と「鼻」は仲良し?目と鼻(1)

 


「目と鼻の先」「目鼻立ちがよい」「目から鼻へ抜ける」…ムトウ先生、「目」と「鼻」を使った言葉って色々ありますね。仲良く一緒に使われることが多いようですね。

 

「目鼻立ち」という言葉は「顔立ち」そのものを指しますが、なかでも「目鼻立ちが整う」という言い方は、きりょうそのものがよいことも表現していますね。確かに、美人であるか否かの要素として目や鼻の形は大きいに違いありません…。報道写真などで、個人のプライバシーを守るために人相を隠したい場合、目の部分を黒く帯状に塗りつぶしますが、これも顔立ちの中に「目」の占める割合が大きいことを裏付けています。

 

 

「目鼻」という言い方は、昔から言われていたのでしょうか。

 

『源氏物語』のなかにも「めはな」という表現が散見されますから、かなり古くから用いられていたのでしょうね。物事の大体の決まりをつけることを「目鼻が付く」「目鼻を付ける」などと言いますが、このような言い回しは江戸時代からされるようになったようです。江戸時代の雑俳に「口論に理非の目鼻を付ける人」というのがあります。

 

 

うなんですね。それは何か言葉の由来があるのでしょうか。

 

考えてみるに、「画龍点睛を欠く」の裏返しのような気がします。肝心要な部分の決まりがついていないことを「画龍点睛を欠く」と言いますが、この裏返しとして肝心な点の決まりがついたことを「目鼻がつく」と言うようになったのではないでしょうか。あるいは、江戸時代のことですから、福笑いでもしている時に偶然使われ、流行語として広まったというようなこともあったかもしれませんね。

 

 

白いですね!
次回も「目」と「鼻」の使われ方について、ぜひもっとお話をお聞かせください。

 

(原作:医学博士  武藤政春)

銀海と道教 2/2

  • 2016.09.21 Wednesday
  • 17:02

銀海と道教   東洋医療の原点(2)

 


回は、西洋医学の原点がキリスト教であり、東洋医学の原点が道教であることをお話しいただきました。

 

西洋では、病気とは神の不興を表すものであり神の恩寵によって治ると考えられてきました。したがって、

キリストの弟子たる聖人・聖職者たちが奉仕活動の一環として医療活動を行うようになります。
東洋では、病気とは自然の成り行き、「道」に逆らうと起こると考えられていました。つまり、「道」に逆らい病気となった者に対して、道をよくわきまえたものが指導してやるのが医療だったのです。

 

 

西洋と東洋では、治療に対する考え方がまったく違うのですね。


そうですね。西洋では医療は“奉仕”であったので、医者の患者に対する態度は親切でしたが、東洋では“指導”でしたから、一見横柄な態度が歴史的に培われてきたようです。
しかしながら、その内実は西洋の医者よりも奉仕的であったかもしれません。西洋では、手術の成功報酬が定められるなど、医療を金銭に換算して考える側面もありました。これに対して東洋では、医療をビジネスライクには考えてこなかったようです。

 

 

洋では金銭による報酬という考え方をしなかったということですか?

 

中国では、医者のことを気取った言い方で「杏林」というのですが、この言い回しは故事にある医者の「病者を施療して報酬を受けず、癒えし重病者は杏5株を、軽病者は1株を植う。此の如くすること数年、計十万株を得たり…」という

一節に由来します。
伝統的に東洋の医者は、診療の報酬に対して恬淡としており、いまだに欧米の診察料に比べて、日本の診察料はおしなべて数分の一程度になっているのですよ。

 

(原作:医学博士  武藤政春)

銀海と道教 1/2

  • 2016.09.21 Wednesday
  • 17:01

銀海と道教  東洋医療の原点(1)

 


回は、西洋の医療の変遷についてお話しいただきました。日本や中国など東洋ではどうだったのか気になります。

 

では今回は古代中国の医療について振り返ってみましょう。
「銀海」という言葉があります。一般の方には馴染みのない言葉でしょうが、眼科医の間では仲間内の雑誌の名前などに用いられることがある言葉で、眼や眼科、眼科医のことをちょっと気取っていう言い回しなのです。

 

 

「銀海」ですか!なぜそのように呼ぶのでしょう?
    
「銀海」は中国の道教で使われた言葉です。道家(道教の人々)は肩のことを「玉楼(美しい御殿)」、眼のことを「銀海(銀の海)」など、美化した言い回しをしていました。キリスト教の理想が、たとえ肉体は滅びても魂は不滅でいたいとするのに対して、道教は肉体も魂とともに不滅でありたいというのが理想です。そこから肉体を美化する発想につながるのですね。

 

 

しい言葉ですが、西洋とは考え方がずいぶん異なるのですね。

 

西洋では、病気とは神の不興をかったものであり神の恩寵によって治るものと考えられていました。

これに対して中国では、自然の成り行きにまかせれば正しい事象が導かれ、自然の成り行きに逆らうと不都合な事象が導かれるものと考えました。つまり病気とは、罪に対する罰のようなものではなく、自然の成り行きに逆らって行動したことの結果であるということですね。この考え方は日本にも古くから導入されてきました。

 

 

方医療と呼ばれるものですね。現在でも漢方薬による医療は人気があるようですね。

 

東洋医学にも優れた面がたくさんありますが、これに頼りすぎるのもよくありません。病気の本質を見極め、病理学的見地から投薬を行う西洋医学の方が自然科学としては進んでいます。漢方を充分に理解し、かつまた西洋医学も充分に習得した人の指示に従い用いることによって漢方薬も充分な効果が期待できます。
次回は、古代の東洋医学の医者についてもう少しみていきましょう。

 

(原作:医学博士  武藤政春)

目には目を 2/2

  • 2016.09.16 Friday
  • 14:36

目には目を  西洋医療の原点(2)

 


回は古代バビロニアで目の手術が行われていたというお話でした。
当時から医者は専門の職業として存在していたのですね?

 

古代バビロニアには3ランクの医者がいました。最も地位が高いバルーは一種の占い師で、病気の診断や予後の予知を任務としていました。2番目がアシプーという祈祷師のようなもので、病人にとりついた悪魔を追い出すことを仕事としていました。薬や手術を用いて病人の治療にあたったのは、最下位のアスーと呼ばれた医者でした。
古代社会は神を中心とした社会でしたから、神にお伺いをたてるバルーや神の怒りを鎮めるアシプーの地位が高く、神と関係なく薬や手術で治療するアスーは下賤な存在だったのですね。

 

 

代の私たちとは常識の異なる社会ですね。

ところで、目の手術とは、いったい何の手術が行われていたのですか?

 

記載は残っていないのですが、報酬の高額さからいっても、見えない眼が見えるようになるような手術でなければ見合わないはずです。また、手術によって失明させられる危険性のあるものといえば、内眼部の手術でしょう。恐らく、白内障の手術が行われていたものと思われます。

 

 

内障の手術が当時から!それほどの技術を持ちながら、地位は低かったのですね・・・。

 

その後ギリシャ・ローマ時代になっても、医療の実践者たちの地位は低いままでした。これは、頭脳労働は尊く肉体労働は下賤というギリシャ的考え方によるものです。その時代にあっても、評論家的に医を論ずることは尊いが、実際に手を動かして患者の治療にあたる者たちは下賤な存在だったのです。

この考え方は、中世に入っても受け継がれます。

 

 

西洋において、今日のような医療が確立したのはいつ頃のことなのでしょうか。

 

ルネッサンス(14〜16世紀)後、医学は大いに発達しましたが、医学の研究者の地位が高く、医学の実践者が下賤であるのは変わらず、両者の連携もほとんどありませんでした。19世紀になってようやく、病院が各地に生まれ、この病院という場において両者が連携を持ち、ようやく現代医学の扉が開かれたのです。

 

(原作:医学博士  武藤政春)

目には目を 1/2

  • 2016.09.16 Friday
  • 14:24

目には目を  西洋医療の原点(1)

 

 

んにちは、ムトウ先生。先日、祖母が白内障の手術を受けました。思ったよりスムーズでよかったと言っていましたよ。ところで、目の手術っていつ頃から行われていたのでしょうね?

 

目の手術は、実は紀元前の古代バビロニアの頃から行われていたのですよ。

「目には目を」という言葉は知っていますね?

 

 

ンムラビ法典の、何か害を受けたときに同様の害をもって報復するという言葉ですね。

 

ハンムラビ法典の中にこのような記載があります。

「医師が手術で眼を治した場合、患者が自由民であるならば銀10シェケルを医者に支払うこと。同じく自由民の息子なら銀5シェケル、奴隷ならば2シェケルをその主人が支払うこと。ただし医者が手術で眼を失明させてしまった場合、患者が自由民であるなら、医者はその眼をつぶされる。患者が奴隷であるならば、医者はかわりの奴隷を差し出すこと。」

 

 

さに「目には目を」ですね。医者にとっては大変な覚悟が必要だったのでしょうね。

 

当時、中程度の住居の一年分の家賃が銀5シェケルだったといわれています。これからいくと、目の手術の成功報酬はかなりの高額だったといえますが、失敗した場合の代償も大きかったというわけですね。

おそらく当時、腕のいい医者も沢山いたのでしょうが、いい加減な医者もいたのではないでしょうか。そのため罰則を厳しくし、いい加減な気持ちで手術などを行えないようにと考えていたのかもしれません。実際、罰則が必ず適応されたということもなく、戒めの意味合いが強かったようですね。

 

 

んなに古くから目の手術を行うような医者がいて、罰則まであったなんて驚きました。当時の人々からはありがたく思われたのでしょうね。

 

ところが、手術によって病気を治療する医者の地位は決して高くはなかったのです。次回もう少し、古代西洋の目の手術と医者について、みていくことにしましょう。

 

(原作:医学博士  武藤政春)

目は口ほどにものを言い

  • 2016.09.02 Friday
  • 14:59

目は口ほどにものを言い
 

 

トウ先生、最近の若い女性は、実に華やかなアイメイクをしていますね。

目を2倍3倍大きく見せる化粧法などもあるそうですよ!?

 

人間の豊かな表情の中でも、主役はやはり眼ですからね。「目は口ほどにものを言い」というように、眼は、表情筋の動きだけでなく、視線の方向、あるいは涙などで多彩な感情表現を行うことができます。美しい目元で人を魅了するといえば、かのクレオパトラや楊貴妃が浮かびませんか。

 

 

界三大美女ですね!そういえばアイシャドウやアイラインなどの化粧法は、エジプトにルーツがあるそうですね。

 

エジプトのパピルスには眼の化粧法についての詳細なノウハウが残っているそうです。クレオパトラは英雄シーザーやアントニウスの気を引いた美女ですが、高い鼻だけでなくその眼も大きく物を言っていたと思われます。

 

 

貴妃など、中国の女性も眼の化粧に熱心だったのでしょうか?

 

中国人の眼の化粧も、京劇などで見られるように派手派手しいものであったようです。楊貴妃も、「眸をめぐらして一笑すれば百媚生じ」と『長恨歌』で語られるごとく、華やかな目元で皇帝を魅了していたことが伺われます。一方、日本の美女・小野小町となると、ちょっと違います…

 

 

しかに、小野小町が大きな目で魅了したというイメージはないような…

 

小野小町の時代でいえば、男女の求愛は手紙のやりとりが主で、顔を合わせる機会そのものが稀でした。根本的な美的感覚の相違もあったのでしょう。中国では、直接的で華やかなものが美であり、女性が喜怒哀楽の表情を発揮することが美しいことでした。対して日本では、喜怒哀楽の 表情を露骨に表さず奥ゆかしいものが美しかったのです。

 

 

は日本では、いつ頃から目は「口ほどにものを言う」ようになったのでしょう。

 

江戸元禄時代の『柳多留拾遺』という川柳集に、「気かあれば 眼も口ほどに ものをいひ」という川柳が残っており、これがその言葉の語源となったようです。元禄時代といえば、古来の貴族文化を自由奔放な町民文化が凌駕した時代です。日本人の眼も自由奔放に輝き始めた時代であったといえるでしょう。

 

(原作:医学博士 武藤政春)