涙を流して獲物を食べるワニ

  • 2017.06.27 Tuesday
  • 14:50

涙を流して獲物を食べるワニ

 

 

トウ先生、ワニは獲物を食べるとき涙を流しながら食べると聞きましたが、本当ですか?

 

ヨーロッパでは長い間、ワニは神の化身であり慈悲深い動物で、獲物を食べるとき慈悲の涙を流すと言い伝えられてきました。しかしこの涙は、ワニの目の優れた構造によるものなのですよ。

 

 

中に潜ったり水面に現れたりするワニの生活に関係するのでしょうか。

 

ワニは潜水艦のような動物です。水中の魚介類も食べますが、それだけでは食欲が満たされず、むしろ水辺を訪れる鳥や動物を主食にしています。水辺近くの水中に身を潜め、水辺に来た獲物を水中に引き込み、溺死させて食べてしまうのです。
ワニの目は頭のてっぺんについていて、水中に潜んでいても目だけは水面上に出て周囲の観察ができます。ワニの目は空気中でほぼ正視、水中では強度の遠視になります。つまり水中よりも空気中を観察するのに適した目なのです。

 

 

上を見る方が得意なのですね。他にどのような特徴があるのでしょうか。

 

ワニの瞳孔は、ネコと同じように縦長のスリット状に縮瞳します。円形の瞳孔に比べて横幅をより狭くすることが可能で、太陽光が反射する水面上では、まぶしさを避けられて非常に都合が良いのです。
またワニのまぶたは、カエルと同じように下から上に閉じるので、目を半分閉じていれば水が入りにくい構造になっています。さらにまぶたの皮膚が非常に薄いので、獲物をくわえて水中にもぐり目を閉じていても、うっすらと見えているのです。

 

 

を流すというのは、そのような目を保護する働きのひとつなのでしょうか。

 

ワニのまぶたには細長い瞬膜(しゅんまく)がついています。この瞬膜は、車のワイパーのように左右によく動き、角膜上の余分な水分をふき取ります。そのため、ワニが獲物をくわえて水中から水面に浮かび上がっても、すぐに良好な視界が得られるというわけです。
瞬膜のワイパーが作動して角膜上の余分な水分をぬぐっているのが、人間にはワニが涙を流しているかのように見えたのでしょうね。

 

(原作:医学博士  武藤政春)

  • 0
    • -
    • -
    • -

    王の目・王の耳 〜スパイの歴史〜

    • 2017.06.21 Wednesday
    • 18:08

    王の目・王の耳 〜スパイの歴史〜

     

     

    今回はスパイの話をしましょう。「壁に耳あり、障子に目あり」という言葉がありますが、秘密を覗き見るという意味で、スパイには「目」のイメージが合いませんか?

     

     

    画の様な話ですね!現代風にいえば『007』のジェームズ・ボンドのような感じでしょうか。

     

    非公式の情報収集家、即ちスパイという者は、いつ頃からこの世に登場するようになったのか見てみましょう。スパイが登場するには二つの条件があります。一つはスパイの必要性、つまり支配者が被支配層の監視や外国の情報収集を行いたいなどの場合です。もう一つはスパイが暗躍できる場、つまり様々な「人種」が混在し身を隠しやすい大都市です。

     

     

    るほど。歴史上、二つの条件が揃った場所、時代というと・・・?

     

    古代の文明に遡ってみましょう。古代エジプトでは、王の権威は絶対であり、国は海と砂漠に囲まれた閉鎖的な地域でしたから、スパイの必要も存在もなかったと思われます。

    ではメソポタミアではどうでしょう。ハムラビ王の時代以降、抗争が続いたこの地では、戦争の結果として勝者が敗者を自国に連れ帰ることが普通でした。これは、被支配民族をそのままにして監視・支配していくことに自信が持てなかったということではないでしょうか。裏返せば、情報収集・監視体制・スパイ機構というものが確立してはいなかったのでしょう。

     

     

    はスパイの登場は、もう少し時代が後になってからになるのですね。

     

    紀元前525年、メソポタミアの諸国家やエジプトをも平らげて、空前の大帝国を成立させたのがペルシャです。ペルシャは被支配民族を自国に連れ帰ることをせず、それぞれ総督を任命して統治させました。さらに「王の目・王の耳」と呼ばれる監督官を設け、公式および非公式に各地の監視にあたらせます。これが、西洋史上にはっきりと姿を現してくるスパイの始まりとなります。

     

     

    ルシャ帝国からスパイの歴史が始まったのですね!中国や日本はどうだったのでしょう。

     

    中国では奇しくも同じ頃、戦国時代となりスパイが登場しています。そのようなスパイのテクニックは日本にも伝わりましたが、スパイが暗躍するだけの社会情勢が長らく到来せず、日本におけるスパイの暗躍は、十六世紀、戦国時代に突入して以降のこととなったようです。

     

    (原作:医学博士  武藤政春)

    • 0
      • -
      • -
      • -

      水陸両用の目をもつ鵜

      • 2017.06.11 Sunday
      • 11:11

      水陸両用の目をもつ鵜

       


      日テレビで鵜飼い漁の様子を紹介していました。水中で見事に魚をとらえるウは、やはり漁に適した目を持っているのでしょうか。

       

      ウは鳥類なのに、空を飛ぶことよりも水に潜る方が得意です。ウの巣は高い岩場や木の上にありますが、仕事場は海や川です。一般的に鳥類の羽は油性が強いのに対し、ウの羽は油性が少なく親水性が高くなっています。潜水して泳ぐのには好都合ですが、陸に上がった後は濡れた羽を乾かすのに時間がかかり、なかなか飛行態勢がとれません。そこで簡単に人に捕らえられてしまうのです。

      ウミウを捕らえて飼いならし、川でアユ漁などに使う「鵜飼い」は古事記にも記述があるほどの伝統と歴史があります。十数羽のウを携えた一隻の船で、一晩に百匹近くの収穫が得られるそうです。

      鵜の目 1.gif

       

       

      は漁の名人なのですね。それはどのような要因によるものなのでしょうか。

       

      水に濡れやすい羽、捕らえた魚を逃がさない先が鍵形に曲がったくちばしなどは大きな武器です。中でも最も大きな武器となっているのは、目なのです。

      例えばヒトの場合は、空気中では正視ですが、水中では遠視となってよく見えません。大部分の爬虫類や鳥類、哺乳類は、目のレンズの厚さを変えることによってピントの調節を行っていますが、最も優れた調節力を持っているのは、おそらくウでしょう。ヒトの目の五倍もの調節能力があります。

       

       

      たちが水中ではよく見えないのに対して、ウは水中でも陸上と同じようによく見えるということですか?

       

      そうですね。水面上で水中の獲物を探しているときも、水中に潜って魚を追いかけているときも、どちらの場合もウは、豊かな目の調整力によって物がはっきりと見えているはずです。 しかし、この一番の武器である優れた目の調節能力も、ヒトが年をとって調整力が衰え老眼になるように、ウも年老いると老眼になっていて、鵜飼いには適さなくなるかもしれませんね。

       

      (原作:医学博士  武藤政春)

      • 0
        • -
        • -
        • -

        「目利き」であった薩摩藩 〜利き目と目利き(2)〜

        • 2017.06.05 Monday
        • 14:37

        「目利き」であった薩摩藩 〜利き目と目利き(2)〜

         


        回は、関ケ原の戦いにおける長州藩のお話でした。一方、「目利き」であったという薩摩藩はどうだったのでしょうか。

         

        薩摩の島津義弘は、やむをえず西軍に参加した事情があり、戦場では自らは打って出ず防戦に徹します。そして西軍の敗北が決定的になったとき、家康の本陣のある方向へ、つまり正面突破での遁走をはかります。家康もびっくりしたことでしょう。戦後、島津は西軍に与した事情を言い訳する一方、軍備を整え征伐に備えました。西軍方でありながら、薩摩は減封を免れています。家康の脳裏に、自分の本陣間近を突破していった島津の恐ろしさが残り、敵にまわすことをためらわせたのかもしれませんね。

         

         

        州と薩摩といえば、ともに明治維新に大きく関わった藩でもありますね。natu_0060あじさい.gif

         

        そうですね。しかしその過程をみると微妙な違いがあります。幕末の政変劇の経過の中で、薩摩藩はほぼ一貫して主流派に位置していたのに対して、藩論が右に左に揺れ動いていた長州は時に傍流に追いやられ、一時は朝敵とまで名指しされます。

        安政の大獄の時には、長州は幕府の要求に応じて吉田松陰を差し出し、貴重な人材を失っています。同じ安政の大獄で、西郷隆盛を要求された薩摩は、西郷は既に死んだとウソの報告をしています。

         

         

        新後の日本陸軍は主に長州軍閥に支配されていたと思うのですが。

         

        日本陸軍の基となる近衛を編成したのは西郷隆盛でした。近衛は薩摩、長州、土佐、肥前の藩兵で主に構成されていました。しかし征韓論で破れた西郷は鹿児島に帰り、薩摩人の多くは彼に従って帰郷してしまい、以降は長州軍閥に支配されることになります。

         

         

        西郷隆盛が下野せずにいたら、その後の歴史にも影響があったかもしれませんね。

         

        そうかもしれませんね。ただ、いうまでもありませんが、現代の山口県人の人たちは皆、鑑定眼のしっかりした方達ばかりですよ。

         

        (原作:医学博士  武藤政春)

        • 0
          • -
          • -
          • -