青森市に県庁が置かれた理由とは〜ねぶたの歴史(2)〜
- 2017.07.30 Sunday
- 10:29
青森市に県庁が置かれた理由とは〜ねぶたの歴史(2)〜
前回に続き、ねぶた祭が行われる青森市のお話ですね。
青森県というのは、明治4年に5つの藩が合併してできた県です。うち弘前藩と八戸藩が大藩でしたので、その城下町である弘前・八戸のいずれかに県庁が置かれるのが妥当なはずでした。ところが、一漁村に過ぎなかった青森に県庁が置かれることになったのです。
実に異例のことだったのですね。どのような理由があったのでしょうか。
ひとつの説明として、青森が北海道開拓の基地として交通の要衝であったことがあげられます。しかしそれだけではなく、もう一つの大きな理由があったのです。
1571年、現在の青森県・岩手県の領域を事実上支配していたのは南部氏です。しかし南部氏では次の当主の座をめぐって内紛が続いていました。その状況の中で、それまで南部氏の支配下にあった津軽為信は南部氏の群代を奇襲し、独立を宣言します。
1571年といえば、織田信長の時代ですね。その11年後に本能寺の変が起きています。
そうですね。津軽為信は常に中央の動向を観察しており、秀吉がやがて天下人になるであろうことを察していました。そして1589年、秀吉が小田原討伐のために京を発つと、わずか18騎だけを引き連れて急ぎ駆けつけ、秀吉に謁見し、津軽3郡の領有を認める旨の朱印安堵状を手にします。南部氏も小田原に参陣したものの、時すでに遅く、津軽為信が朱印状を手にした後のことでした。
南部氏の側から見ると、してやられたというところですね。
明治になり、そのような因縁を持つ弘前津軽藩と八戸南部藩が合併したわけです。領地比率でいけば弘前藩の方が広く、弘前藩では県庁所在地として弘前を要求しました。しかし八戸藩では、自らが本家筋であるとの意識が強く、これを呑むことをしませんでした。
この両者の折り合いがつかず、折衷案として青森が県庁所在地に決められたという経緯もあるようです。
現在、青森市で勇壮なねぶた祭りが見られるのは、300年にわたる南部氏と津軽氏の確執があったおかげなのかもしれないのですね。
(原作:医学博士 武藤政春)
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