盲目で関ケ原に向かった大谷吉継

  • 2017.10.30 Monday
  • 15:06


盲目で関ケ原に向かった大谷吉継

 

 

ケ原の戦いは、今年映画にもなりましたが、西軍に大谷吉継という武将がいましたね。頭巾をかぶった異様な風体に驚きました。
 

大谷吉継は九州大友家の家臣でしたが、大友家滅亡により流浪の身になり、やがて石田三成の推挙により秀吉に仕えるようになった武将です。のちに越前敦賀領主となりましたが、三十歳頃にハンセン氏病を病み、両眼を失明してしまったのです。

 

 

は関ケ原の戦のときにはすでに視力を失っていたのですね。

 

1600年の上杉征伐に家康が出陣する時、これに従軍するつもりで国を出た吉継は、石田三成から家康に対して戦いを挑むことを打ち明けられ、味方になってくれるように頼まれたのです。
その時吉継は既に両眼とも見えなくなっていましたが、世間を見通す目は確かでした。三成が家康に歯向かっても勝目がないということは知っていたでしょう。それでも三成の軍に参加したのは、ひとえに三成に対する恩義からでした。

 

 

臣秀吉の家臣に推挙してくれたことへの恩義ということでしょうか。

 

こんなエピソードがあります。豊臣秀吉在世の頃、大阪城で茶会が開かれたときのことです。当時吉継はハンセン氏病を病んでいました。茶会では、秀吉がたてた茶を居並ぶ武将達が一口ずつ飲み回していましたが、吉継から茶碗が回ってくると、武将たちは飲むのをためらい、飲むしぐさだけして「結構な味でございます」などと言っては次へと回していました。しかし茶碗が三成のもとへと来たとき、三成は表情も変えずにゴクゴクとその茶を飲みほしてしまったといいます。
 

 

成の人柄がしのばれますね。吉継はどれほどの思いでそれを見ていたことでしょう。

 

この時の恩を吉継は終生忘れなかったといいます。そして関ケ原では、寝返り相次ぐ西軍の中にあって、最後まで戦い抜いたということです。

 

(原作:医学博士  武藤政春)

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    多くの謎を持つカメ

    • 2017.10.20 Friday
    • 14:23

    多くの謎を持つカメ

     

     

    トウ先生、有名な「兎と亀」の昔話は随分と古くから語られてきたそうですね。
     

    そうですね。「兎と亀」の話はビザンチン文化圏で発祥し、その後アジア、アフリカ、アメリカへとひろまっていったそうです。カメといえば日本では「浦島伝説」も有名ですが、こちらは日本書紀に載っているほど古くから日本に伝わる昔話です。ところで、古代日本人の思考の中で、なぜカメと海中の楽園が関連付けられたのでしょう。

     

     

    えてみればそうですね。何か理由があるのでしょうか。

     

    海ガメの産卵では、ふ化した海ガメの子ども達は、誰に教えられたわけでもないのに一目散に海を目指して歩き始めます。一心不乱に海を目指す姿からは、海の中にはさぞ素晴らしいものが待っているに違いない、と思えてきます。きっと古代の人々にもそう思われたのでしょう。
    海ガメの子どもが海を目指して行けるのは、光の反射する海面の明るさと、地面の上の明るさのちがいを感知しているからという説が有力ですが、まだはっきりとはわかりません。

     

     

    ガメは産卵のときには生まれ故郷の浜に戻ってくるそうですね。大洋を大回遊しているというのに、何を頼りに故郷に戻ることが出来るのでしょう。

     

    臭いの物質を道しるべにしている、太陽をコンパスにして行動している、一定の水温の海域を泳ぐようにしているなど、さまざまな説があります。しかし、いずれもまだ十分な解答にはなっていません。 「兎と亀」の話のなかで「どんくさい」動物とされているように、カメは運動面でも感覚面でも鋭いところは何一つありません。その目は視神経乳頭耳側に円形中心野を持ってますが、中心窩までは分化していませんから、視力もとりわけよくはありません。眼球は結構動きますが、視界はそれほど広くはありません。カメにとって唯一の特技といえるのが、いざというときに、首と手足を甲羅の中に引っ込めて身を守れることです。
     

     

    「どんくさい」はずのカメが、どうやって大洋の大回遊を行い、生まれ故郷の浜に帰ってこられるのか、生まれたばかりの子ガメがなぜ一目散に海を目指していけるのか、まだ定説はないのですね。いずれはその謎を知りたいものです。

     

    (原作:医学博士  武藤政春)

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      「鼻で物を見る」犬

      • 2017.10.11 Wednesday
      • 14:23

      「鼻で物を見る」犬

       

       

      の前渋谷に行きましたが、ハチ公前の待ち合わせはすごい人混みでした。ハチ公像は昭和9年に建てられたそうですね。

       

      忠犬ハチ公は日本人に長く愛されてきましたね。ただ、戦前の修身教育によって実際よりも美談に仕立てられたようではありますが。
      ところで、この話の主人公がイヌでなく、ネコだとしたら誰もこの話を信じることはなかったでしょうね。ネコはエサをもらうために媚びることはあっても、心から飼い主に服従することはありません。それに対し、本来群れをなして生活する動物であるイヌは、飼い主を群れの上位者とみなし、主人に忠義を尽くします。

       

       

      ちらも人と一緒に生活する動物でありながら、対照的ですね。

       

      ネコとイヌは狩りの仕方にも相違点があります。どちらも狩りは夜行いますが、ネコは待ち伏せるハンターで、イヌは追いかけるハンターです。この違いは、感覚器官の鋭敏さの違いに関連します。
      ネコの目は網膜外層に反射層があるなど、暗闇でもよく見える工夫がいくつもあります。イヌの目は反射層の存在する領域はずっと狭く、暗闇での視力はネコの方がずっとよいと思われます。イヌはネコのように暗闇で獲物を見つけるのは困難でしょう。

       

       

      うなのですね。ではイヌは、狩りの時はどうするのですか?

       

      イヌが持つ強力な武器は嗅覚です。「鼻で物を見る」といわれるイヌはヒトの百万倍以上の嗅覚を持っています。何キロメートルも離れた遠くの獲物を探知し、その臭いを道しるべに追いかけるのです。
       

       

      察犬など、イヌの嗅覚は人間の役にも立ってくれていますね。

       

      イヌが警察犬として活躍する端緒をひらいたのは小説家のコナン・ドイルです。彼は著作「パスカヴィル家の犬」の中で殺人計画に犬の嗅覚を利用する方法を採り入れています。この小説がヒントとなって、犯罪ではなく犯罪捜査に犬を使うことが考えられ、スコットランドヤードに警察犬が登場するようになりました。そしてやがて世界中で、犯罪捜査にイヌが活躍するようになったのです。

       

      (原作:医学博士  武藤政春)

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        眼病に悩まされた藤原道長

        • 2017.10.01 Sunday
        • 10:41

        眼病に悩まされた藤原道長

         

         

        藤原道長といえば「この世をば我が世とぞ思ふ望月の〜」の歌で有名な平安時代の権力者ですが、実は糖尿病に苦しめられていたのを知っていますか?

         

         

        りませんでした…そのようなことがわかるのですか?

         

        道長の日記『御堂関白記』や同時代の貴族の日記に、道長が昼夜の別なく水を欲していたという記載があり、道長は糖尿病だったに違いないと信じられています。
        そして重い眼病にも悩まされていたようです。『御堂関白記』には「目が暗い。お祓いをしたが明るくならない」「二、三尺隔てた人の顔も見えない」など視力の低下を嘆く様子が記されています。おそらく糖尿病による白内障や網膜症だったのでしょうね。

         

         

        華を極めた権力者も病には悩まされたということですか。

         

        当時、藤原一族には、糖尿病や眼病の者が数多くいたのですが、道長は、自分の眼病について「たたり」ではないかと考えていたようです。
        道長というとエリートですんなり栄光の座についたように思われがちですが、彼は五男であり、兄弟との権力争いの果てにその座をもぎとった人物です。道長が確固たる権力者の地位についたのはかなり晩年のことであり、それまでに邪魔な身内をでっちあげの嫌疑で告発・左遷せしめたり、言うことをきかない三条天皇を退位に追い込んだりしてきました。

         

         

        条天皇は「心にも あらで憂き世に ながらへば 恋しかるべき 夜半の月かな」という、世をはかなむ歌が有名な方ですね。

         

        三条天皇は40歳にして殆ど視力を失っていました。道長は自分の孫を皇位につけて自らは摂政になりたいと考え、三条天皇に対して「そんな目では天皇としての仕事に差し障りがある」といびり続けたようです。耐えきれなくなった三条天皇の退位で道長は念願を叶えたものの、今度は自分が眼病に悩まされるようになり、視力を失っていったのです。

         

         

        果応報というか、道長が「たたり」と考えたのも無理からぬことですね。

         

        道長は、晩年に出家し、自ら建立した法成寺の阿弥陀堂に籠ってお経を読んで暮らしたといいます。最後には阿弥陀仏と自分の指を七色の糸で結び亡くなったそうですが、はたして極楽に行けたのか否かは知る由もないですね。

         

        (原作:医学博士  武藤政春)

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