紫式部が近視にならなかった訳は

  • 2017.12.27 Wednesday
  • 15:28



紫式部が近視にならなかった訳は

 

 

日、清少納言が遠視だったのではないかというお話を伺いました。清少納言と並び称される、「源氏物語」の作者・紫式部のことも知りたくなってきます。

 

紫式部は小さい頃から賢く、勉強家だったようです。兄よりも早く漢文の暗唱をする彼女を見た父親は、彼女が男の子でないことを悔しがったといいます。 紫式部日記をひもとくと、紫式部が夜でも遠くがよく見えていた様子や、近方視が困難になっていた様子がうかがえます。清少納言同様、これも30代半ばのことですから、やはり遠視であったのではないかと推察されます。

 

 

強家だった紫式部と清少納言が近視にならずに済んだのは何故なのでしょうか。

 

おそらくは、二人が読み書きしていた文字が字画が多く混み入った文字の漢字ではなく、字画が少ない仮名文字だったからではないでしょうか。
当時、仮名混じり和文を書くのは専ら女性に限られていました。漢字や漢文はあくまでも男性にとっての教養で、女性が漢文の素養をひけらかすことは小賢しい事であり、女性は仮名文字だけを読み書きすれば良いのだと考えられていました。この風潮のおかげで、紫式部と清少納言は近視にならずに済んだのかもしれません。

 

 

性が漢文の素養を見せるとよく思われないなんて、息苦しいことだったでしょうね。

 

生真面目な性格の紫式部は、小賢しい女と言われないよう漢文の素養があることを隠し、一条天皇から「源氏物語の作者は漢文で書かれている日本書紀を相当に読み込んでいるに違いない」と言われたときも「最近は『一』という漢字さえ書いておりません」と答えた程です。これに対して物事にこだわらない清少納言は、枕草子の中でもあっけらかんと、漢文の素養があることを披歴しています。

 

 

じ優れた文学者でありながら、対照的な性格の二人だったのですね。

 

紫式部はそんな清少納言のことを「清少納言こそ、したり顔にいみじう侍りける人(清少納言ってしたり顔の嫌な女ね)」と辛辣に批評しています。しかし、もし紫式部が同じように奔放な性格で、漢文が得意だからといって漢文学の方にのめりこんでいったとしたら、「源氏物語」は生まれなかったでしょうし、紫式部は近視になっていたのかもしれません。

 

(原作:医学博士  武藤政春)

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    サケはどうやって故郷の川に帰る?

    • 2017.12.19 Tuesday
    • 14:43



    サケはどうやって故郷の川に帰る?

     

     

    日テレビで、サケが故郷の川へと遡上してくる様子を見ました。海で過ごした後だというのに、きちんと生まれ育った川に帰ってくるというのは不思議ですね。

     

    サケの受精卵は100〜150日でふ化し、稚魚となったサケは4〜6月頃に川を下って海へ向かいます。海で3〜5年生活したサケは、成熟し、生まれ故郷の川を目指して旅を始めます。人間に例えるなら、6歳くらいの子どもを見知らぬ土地へ連れていき、数年経ってから一人で生まれ故郷に帰るようなものであり、ほぼ不可能と言ってよいでしょう。

     

     

    ケは何を頼りに故郷の川に帰ってくるのでしょう。何かレーダーになるものがあるのですか。

     

    魚の聴覚器官は、サケに限らず極めて不完全なものです。内耳はあっても鼓膜がなく、聴覚はほとんど役に立っていません。その代わり魚には体の両側に、振動を感じる「側線」と呼ばれる器官があります。水の流れの微妙な変化を感知し、敵の存在やエサのありかを探るのに大いに役に立っています。ただこの側線も、サケの回帰にはあまり関与していないそうです。
    翻って、魚の嗅覚はかなり鋭敏なようです。実験として、二つに枝分かれした川の上流で戻ってきたサケを捕らえ、鼻孔を綿でふさいでから分岐点の下流で放流すると、サケは分岐点の先へ進めなかったといいます。嗅覚が母川回帰に大きく関与していることを物語っていますね。

     

     

    は、サケは故郷の臭いをたどって帰ってくるということでしょうか。

     

    大海のはるか彼方から、嗅覚だけを100パーセント頼りに戻ってこられるのかは、やや疑問ですね…。
    サケの目について考えてみましょう。その構造上、視力はかなり良いはずです。サケは故郷の川へ帰るときは、昼間だけ動いて、夜は回遊をしません。なぜ昼間だけ行動するかについては、いろいろな説があります。太陽の位置をコンパスにしている、まわりの地形を見ながら回遊しているなど言われていますが、まだ断定はできません。いずれにしても、昼間だけ回遊しているということは、視覚が回帰に何らかの形で寄与していることを想像させます。

     

     

    ケの母川回帰にはまだまだ未知の部分が多いのですね。

     

    (原作:医学博士  武藤政春)

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      清少納言は遠視だった?

      • 2017.12.10 Sunday
      • 10:33


      清少納言は遠視だった?

       

       

      近はめっきり朝が寒くなりましたね。寒い早朝には、枕草子の「冬はつとめて」という一節が思い出されます。

       

      冬は早朝が良いという有名な一節ですね。枕草子を書いた清少納言は、紫式部と並び称される才媛ですが、勝気で強情な性格の女性であったようです。三十九段では、「夜鳴くもの、なにもなにもめでたし。ちごどものみぞさしもなき。(夜鳴くものは何から何まで風情があって全て結構である。ただ赤子だけはそうじゃない)」と書かれ、彼女には母性本能というものがあったのだろうかと、疑いたくなってしまう程です。

       

       

      んなことも書いているのですね…。勉強家で、優れた作品を著した彼女は、目も酷使したのではないだろうかと思いますが?

       

      枕草子をひもとくと、清少納言の目がどのような目であったか、何となく想像できます。

                                                          

      一段「雁などのつらねたるがいとちいさく見ゆるはいとおかし」

      (雁なんかの列をなしているのが空の遠くに大層小さく見えるのなんかは大変面白い)

       

      三十九段「鷺はいとみめも見苦し。まなこゐなども、うたてよろづになつかしからねど」

      (鷺は大変見た目も見苦しい。目付なんかもいやらしく、万事ひかれる点はないが)

       

      など、遠くを飛んでいる雁の様子や、やはり遠くを飛んでいるはずの鷺の目付きがよく観察出来ていることから、遠方視力は充分よかったものと思われますね。

       

       

      くまでよく見える、視力の良い目だったということでしょうか。

       

      一方で、百五十五段では、薄暗い所で針に糸を通すのがじれったいということを述べています。薄暗い所で近くを見るのに若干不自由していたようですね。
      彼女が枕草子を書いたのは33歳頃のことと考えられています。三十三歳で近くが不自由になるというのは、ちと早すぎますね。
      遠方はよく見えていて、若いうちから近くが見づらくなっていたということになると、清少納言はどうやら、軽い遠視であったのではなかろうかと思われます。

       

      (原作:医学博士  武藤政春)

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        大きな目を持つウシ

        • 2017.12.01 Friday
        • 14:37

        大きな目を持つウシ

         

         

        日牧場に遊びに行ってきましたが、牛というのは本当に大きな眼をしていますね。

         

        ウシは大きく突き出した特徴的な目をしていますね。先天性緑内障のことを「牛眼」と呼びますが、これはギリシア語の「Buphthalmos」(牛の目という意の合成語)に由来しています。乳児は眼球組織が未成熟なので、眼圧が高いと内側からの圧力によって、眼球が拡張して突き出してくることが多くなります。その様子がウシの眼に似ていることから、このように呼ばれるようになったのでしょう。

         

         

        畜の中では、馬は牛以上に大きく突き出た目をしていますが・・・「馬眼」とならずに「牛眼」となったのは不思議ですね。

         

        それについては、歴史的エピソードをたどってみるとよいでしょう。紀元前490年のマラトンの戦いでは、アテネの兵士フェディオビデスが、軍装のまま城門まで走り続け、味方の勝利を絶叫して息絶えたといわれています。マラソンの起源になった出来事です。なぜこのときフェディオビデスは早馬に乗らず、自ら走ったのか…古代ギリシアではまだ軍馬がほとんど存在していなかったことをうかがわせます。

         

         

        うなのですね。馬の家畜化は歴史的にやや遅かったのでしょうか。

         

        当時ウシが全世界的に家畜化されていたのに対し、ウマは北アジアや北ヨーロッパで家畜化されていたに過ぎません。もう少し後の時代、紀元前336年、マケドニアにアレクサンダー大王が登場し、ウマの機動力を大いに活用して大帝国を築き上げていきます。 それ以前のギリシア人は、海軍と重装歩兵陸軍とで地中海沿岸領域だけを制圧しようという小市民的な考え方をしていたのです。

         

         

        まり「馬眼」ではなく「牛眼」と呼ばれたのは、牛の方が家畜として知られていたからということでしょうか。

         

        そうですね。当時は、ヒポクラテスなどによって花開いたギリシア医学全盛の時代ですが、ウマにはまだ馴染みが薄く、大きな目の持ち主といえばウシしかいなかったのです。「牛眼」という病名が使われたのも当然かもしれません。

         

        (原作:医学博士  武藤政春)

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