梶原景時はなぜ頼朝を見逃したか?

  • 2018.03.30 Friday
  • 14:25

梶原景時はなぜ頼朝を見逃したか?

 

 

梶原景時という武将を知っていますか。1180年、平氏追討のため挙兵したものの敗走した源頼朝を、山中において見逃したというエピソードが知られています。


 

朝が隠れている洞窟を覗き込み、そこに頼朝がいるのを知りつつも見逃したとか。武士の情けか、はたまた頼朝の堂々たる姿に気押されたか…感動的な逸話ですね。

 

しかしその話は本当なのでしょうか?当時の景時の立場としては、もし頼朝の首を取れば大変な手柄であったはずです。後年景時は、この一件もあって頼朝に重用されるようになったものの、この時点での頼朝は敗軍の将であり、いわば賞金首のようなものです。果たしてこのようなチャンスを武士の情けなどで放棄するものでしょうか。

 

 

時は武士の情けより、実利を取るような人物だったのですか?

景時はのちに頼朝に仕えるようになり、源平の合戦には源氏方として出陣します。屋島の合戦の時、義経に逆櫓を船に付けることを進言して叱責され、以後義経を恨むようになります。義経の行状を事ある毎に頼朝に進言し、兄弟対立を煽るようになったようです。
頼朝の死後、幕府内に権力闘争が起きると、彼は結城朝光を陥れようとして逆に三浦、和田氏等の弾劾を受け鎌倉を追われます。このため彼は、幕府に対抗し挙兵しようとしますが、上洛の途中、追討軍に討たれ一族ことごとく討ち死にします。

 

 

時の人物像は、頼朝を見逃した、無欲で高潔な武将とは隔たりがあるように思えますね。

 

むしろ、野心が強い小人物という人間像が浮かんできます。こんな人間が、目の前にぶら下がっている大きなチャンスを逃すでしょうか。
景時が洞窟の中を覗き込んで、頼朝を見逃したのは、決して頼朝の姿を認めながらではなく、頼朝の姿が見えなかったからであると考えた方が納得がいきます。

 

 

いうことは、景時の目に何かの原因があったとも考えられるわけですね!

 

これは私の想像でしかないのですが、景時は実は夜盲症で、そのため薄暗い洞窟の中がよく見えなかったために、頼朝を見逃したのであると考えると、わかりが良いような気がします。

 

(原作:医学博士  武藤政春)

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    砂漠に生きるラクダの目

    • 2018.03.20 Tuesday
    • 14:30

    砂漠に生きるラクダの目

     

     

    トウ先生、ラクダは背中のコブに蓄えた脂肪のおかげで、三日間飲まず食わずで歩き続けられるそうですね。

     

    砂漠という厳しい環境下に暮らすラクダは、他の動物には見られないいくつかの特徴を持っています。背中のコブの脂肪はエネルギーとして利用でき、また、酸化するといつでも水分として使用できます。足は大きくて柔らかく、座布団のようです。これは砂地を歩くのに最適です。膝や胸に特有の「たこ」があって、荒れ地で座るのに適しています。鼻孔は裂け目状になっていて、開閉が自由にできます。そして耳には毛があります。いずれも砂ぼこりが入りにくい構造になっているのです。

     

     

    クダの目にも、環境に適した特徴があるのでしょうか。

    砂漠で暮らすラクダの目にとって、大敵は砂ぼこり、乾燥、強い日差しです。ラクダの目には、こうした大敵に対応する特徴がいくつも見られます。 ラクダのまつ毛は二列になっていて、しかも密集して生えています。このため、砂ぼこりが入りにくくなっています。また、下のまつ毛はネコのヒゲのように振動や触覚に敏感で、ちょっとした砂ぼこりでも瞬時に瞬目反射が誘導され、まばたきによって砂ぼこりが入るのを防ぎます。
    さらに、ラクダの瞼板腺は、非常に脂肪分に富む粘り気のある液を分泌します。乾燥した環境の下にあっても、涙が蒸発しにくくなっているのです。

     

     

    ぼこりや乾燥に耐えられる、優れた特徴があるのですね。もう一つの敵、強い日差しについてはどうでしょう。

     

    ラクダの目で最も特徴があるのが瞳孔です。ウマのようにただ横長に縮瞳するだけでなく、上下からノコギリの歯のように虹彩組織が伸びて、やがてそれが鎖状に連なり、格子のようになります。ラクダは、この瞳孔と垂れ下がったまつ毛によって、あたかも目にブラインドをかけたような状態にできるのです。強い日差しの照り返しもなんのその、砂漠でもたくましく生きていけるのです。

     

     

    然の摂理なのか、神の意志なのか、生き物の素晴らしさには本当に感心させられますね!

     

    (原作:医学博士  武藤政春)

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      清盛に影響を与えた?平忠盛の目

      • 2018.03.04 Sunday
      • 10:20

      清盛に影響を与えた?平忠盛の目

       

       

      平氏の武将で平忠盛という人物を知っていますか?平清盛の父にあたる人物です。
       

      清盛は有名ですが、その父についてはよく知らないですね。詳しく教えてください。

       

      平氏はその祖を天皇家に発するとはいえ、11世紀の頃には高い身分にもついておらず、源氏の隆盛に比べて見る影もない劣勢でした。しかし院政が始まると、院との結びつきによって勢力を盛り返して、院の北面の武士となり、昇殿を許されるようになります。
      しかしながら貴族たちからは、成り上がり者として馬鹿にされていたようです。平家物語の一節に「忠盛御前の召に舞はれけるに、人々拍子を替えて、伊勢へいしはすがめなりけり、とぞはやされける」とあります。伊勢産の瓶子(へいし=とっくり)は粗末な作りだから、酒を入れるよりも酢瓶にした方がよいな、とはやされながら、暗に、伊勢の平氏(平忠盛)は「眇(すがめ)」だとこけにされていたのです。

       

       

      「眇(すがめ)」とはどういうものですか?

       

      片目と解釈される場合と、斜視と解釈される場合があります。恐らく両者とも正しいでしょう。片目がケガか感染症で角膜が白く濁り、結果その目が外斜した、今でいう視力不良性外斜視を意味していたと思われます。 このように忠盛が「すがめ」とそしられながらも耐えて努力していた頃、その子清盛は13歳の若武者でした。

       

       

      感な年頃のときに、父親がからかわれ、辛かったでしょうね。

       

      大きな屈辱を感じたでしょうし、コンプレックスを抱いたであろうことは大いに考えられます。清盛は、保元平治の乱後、急速に権力の座に登りつめていきますが、彼が目指したのは旧来の貴族的な権力の座でした。思春期にコンプレックスを抱いた高貴な貴族の座を、彼自身が経験してみたかったためのような気がします。武士の本分を忘れた清盛の一族は、やがて源頼朝に滅ぼされてしまうわけです。

       

       

      盛の目が「すがめ」でなかったら、清盛は貴族に対して必要以上のコンプレックスを抱かず、その政権も目指す方向が違ったのでしょうか。日本史も少し変わっていたのかもしれないのですね。

       

      (原作:医学博士  武藤政春)

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