サケはどうやって故郷の川に帰る?

  • 2017.12.19 Tuesday
  • 14:43



サケはどうやって故郷の川に帰る?

 

 

日テレビで、サケが故郷の川へと遡上してくる様子を見ました。海で過ごした後だというのに、きちんと生まれ育った川に帰ってくるというのは不思議ですね。

 

サケの受精卵は100〜150日でふ化し、稚魚となったサケは4〜6月頃に川を下って海へ向かいます。海で3〜5年生活したサケは、成熟し、生まれ故郷の川を目指して旅を始めます。人間に例えるなら、6歳くらいの子どもを見知らぬ土地へ連れていき、数年経ってから一人で生まれ故郷に帰るようなものであり、ほぼ不可能と言ってよいでしょう。

 

 

ケは何を頼りに故郷の川に帰ってくるのでしょう。何かレーダーになるものがあるのですか。

 

魚の聴覚器官は、サケに限らず極めて不完全なものです。内耳はあっても鼓膜がなく、聴覚はほとんど役に立っていません。その代わり魚には体の両側に、振動を感じる「側線」と呼ばれる器官があります。水の流れの微妙な変化を感知し、敵の存在やエサのありかを探るのに大いに役に立っています。ただこの側線も、サケの回帰にはあまり関与していないそうです。
翻って、魚の嗅覚はかなり鋭敏なようです。実験として、二つに枝分かれした川の上流で戻ってきたサケを捕らえ、鼻孔を綿でふさいでから分岐点の下流で放流すると、サケは分岐点の先へ進めなかったといいます。嗅覚が母川回帰に大きく関与していることを物語っていますね。

 

 

は、サケは故郷の臭いをたどって帰ってくるということでしょうか。

 

大海のはるか彼方から、嗅覚だけを100パーセント頼りに戻ってこられるのかは、やや疑問ですね…。
サケの目について考えてみましょう。その構造上、視力はかなり良いはずです。サケは故郷の川へ帰るときは、昼間だけ動いて、夜は回遊をしません。なぜ昼間だけ行動するかについては、いろいろな説があります。太陽の位置をコンパスにしている、まわりの地形を見ながら回遊しているなど言われていますが、まだ断定はできません。いずれにしても、昼間だけ回遊しているということは、視覚が回帰に何らかの形で寄与していることを想像させます。

 

 

ケの母川回帰にはまだまだ未知の部分が多いのですね。

 

(原作:医学博士  武藤政春)

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    清少納言は遠視だった?

    • 2017.12.10 Sunday
    • 10:33


    清少納言は遠視だった?

     

     

    近はめっきり朝が寒くなりましたね。寒い早朝には、枕草子の「冬はつとめて」という一節が思い出されます。

     

    冬は早朝が良いという有名な一節ですね。枕草子を書いた清少納言は、紫式部と並び称される才媛ですが、勝気で強情な性格の女性であったようです。三十九段では、「夜鳴くもの、なにもなにもめでたし。ちごどものみぞさしもなき。(夜鳴くものは何から何まで風情があって全て結構である。ただ赤子だけはそうじゃない)」と書かれ、彼女には母性本能というものがあったのだろうかと、疑いたくなってしまう程です。

     

     

    んなことも書いているのですね…。勉強家で、優れた作品を著した彼女は、目も酷使したのではないだろうかと思いますが?

     

    枕草子をひもとくと、清少納言の目がどのような目であったか、何となく想像できます。

                                                        

    一段「雁などのつらねたるがいとちいさく見ゆるはいとおかし」

    (雁なんかの列をなしているのが空の遠くに大層小さく見えるのなんかは大変面白い)

     

    三十九段「鷺はいとみめも見苦し。まなこゐなども、うたてよろづになつかしからねど」

    (鷺は大変見た目も見苦しい。目付なんかもいやらしく、万事ひかれる点はないが)

     

    など、遠くを飛んでいる雁の様子や、やはり遠くを飛んでいるはずの鷺の目付きがよく観察出来ていることから、遠方視力は充分よかったものと思われますね。

     

     

    くまでよく見える、視力の良い目だったということでしょうか。

     

    一方で、百五十五段では、薄暗い所で針に糸を通すのがじれったいということを述べています。薄暗い所で近くを見るのに若干不自由していたようですね。
    彼女が枕草子を書いたのは33歳頃のことと考えられています。三十三歳で近くが不自由になるというのは、ちと早すぎますね。
    遠方はよく見えていて、若いうちから近くが見づらくなっていたということになると、清少納言はどうやら、軽い遠視であったのではなかろうかと思われます。

     

    (原作:医学博士  武藤政春)

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      大きな目を持つウシ

      • 2017.12.01 Friday
      • 14:37

      大きな目を持つウシ

       

       

      日牧場に遊びに行ってきましたが、牛というのは本当に大きな眼をしていますね。

       

      ウシは大きく突き出した特徴的な目をしていますね。先天性緑内障のことを「牛眼」と呼びますが、これはギリシア語の「Buphthalmos」(牛の目という意の合成語)に由来しています。乳児は眼球組織が未成熟なので、眼圧が高いと内側からの圧力によって、眼球が拡張して突き出してくることが多くなります。その様子がウシの眼に似ていることから、このように呼ばれるようになったのでしょう。

       

       

      畜の中では、馬は牛以上に大きく突き出た目をしていますが・・・「馬眼」とならずに「牛眼」となったのは不思議ですね。

       

      それについては、歴史的エピソードをたどってみるとよいでしょう。紀元前490年のマラトンの戦いでは、アテネの兵士フェディオビデスが、軍装のまま城門まで走り続け、味方の勝利を絶叫して息絶えたといわれています。マラソンの起源になった出来事です。なぜこのときフェディオビデスは早馬に乗らず、自ら走ったのか…古代ギリシアではまだ軍馬がほとんど存在していなかったことをうかがわせます。

       

       

      うなのですね。馬の家畜化は歴史的にやや遅かったのでしょうか。

       

      当時ウシが全世界的に家畜化されていたのに対し、ウマは北アジアや北ヨーロッパで家畜化されていたに過ぎません。もう少し後の時代、紀元前336年、マケドニアにアレクサンダー大王が登場し、ウマの機動力を大いに活用して大帝国を築き上げていきます。 それ以前のギリシア人は、海軍と重装歩兵陸軍とで地中海沿岸領域だけを制圧しようという小市民的な考え方をしていたのです。

       

       

      まり「馬眼」ではなく「牛眼」と呼ばれたのは、牛の方が家畜として知られていたからということでしょうか。

       

      そうですね。当時は、ヒポクラテスなどによって花開いたギリシア医学全盛の時代ですが、ウマにはまだ馴染みが薄く、大きな目の持ち主といえばウシしかいなかったのです。「牛眼」という病名が使われたのも当然かもしれません。

       

      (原作:医学博士  武藤政春)

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        眼の病気「そこひ」の由来とは?

        • 2017.11.20 Monday
        • 15:58


        眼の病気「そこひ」の由来とは?

         

         

        トウ先生、眼の病気で「そこひ」という言葉を耳にしました。これはどういうものですか?

         

        目の病気の呼称として日本人に古くから使われてきた言葉ですね。江戸時代は、目の病気を「そこひ(底翳)」「うはひ(上翳)」の二つに分けて考えていました。「うはひ」はものもらいなど外から見て分かる、いわゆる外眼部の疾患、「そこひ」は外からはわかりにくい内眼部の疾患をさしていました。
        今でいう白内障を「しろそこひ」と呼びます。人間の瞳孔は元来黒く見えますが、白内障は目の中の水晶体が白く濁るので、瞳孔が白く見えるわけです。また、「あおそこひ」と呼ばれる緑内障は、眼圧が高くなり、視神経が圧迫され障害を受ける病気です。眼圧が高くなると角膜が水膨れを起こし、そのため瞳孔を見るとどんよりと緑色がかって見えます。

         

         

        「そこひ」という言葉の語源は何なのでしょうか。

         

        その問題の前に、中国では眼の病気をどのように言っていたかについて触れましょう。眼の病気に対する呼称はさまざまな変遷を経て、次の二つに分けて考えられていったようです。

          内障眼(ネイツァンイェン)

          外障眼(ワイツァンイェン)
        内障眼とは眼球内の病気、外障眼とは眼球外の病気のことです。内障眼は瞳孔の色で更に分類されていました。日本でいう「しろそこひ」は「銀風内障」、「あおそこひ」は「青風内障」といいました。そして時代が経つにつれ、「内障」という言葉は、中国では専ら「白内障」だけに用いられ、緑内障のことは「青光眼」と呼ぶ様になってきています。

         

         

        「白内障」という名称のルーツはそこから来ているのですね。

         

        話を「そこひ」の語源に戻しましょう。「そこひ」という言葉自体は、日本に古くからある言葉で、底知れぬ程深い底などを意味します。そしてこれは、多少神秘的なニュアンスを含んだ言葉です。
        昔の人々にとって白内障や緑内障はどのような病気であったでしょうか。けがをした覚えはない、熱病にかかったわけでもない、それなのに知らず知らずのうちに眼が見えなくなっていく。何となく不思議であり不気味であるが、ともかく眼の奥底からの病気なのだろう。 そのような病気に対して、多少神秘的な不気味さをこめて「そこひの病ひ」という言い方がなされたのではないでしょうか。そしていつしか「そこひ」だけで眼病を意味して使われるようになったのではないかと思います。

         

        (原作:医学博士  武藤政春)

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          二万個の個眼を持つトンボ

          • 2017.11.10 Friday
          • 15:06


          二万個の個眼を持つトンボ

           

           

          トウ先生、トンボといえばあの大きな目が特徴的ですよね。トンボはなぜ、あのような姿をしているのでしょう。

           

          顔からはみだしてしまうような大きなメガネのことを「トンボメガネ」といいますが、トンボの目の大きさをよく言い表していますね。トンボは、おそらく現存する動物の中で、頭部の大きさに比べて最も大きな目を持つ動物だといえるでしょう。
          トンボの目は複眼といって、一万個以上の小さな個眼が集まって出来ているのですよ。

           

           

          とつの大きな眼というわけではないのですね。どうしてそんなに多くの個眼が必要なのでしょう。

           

          草食生活の昆虫が多い中、トンボは肉食の昆虫なのです。トンボは時速30キロというスピードで飛びながら、足と足に生えるトゲで網のカゴを作り、小昆虫を捕らえて食べています。ですから、草食昆虫に比べると、より鋭敏な感覚を持っていなければ生きていけません。 トンボの目はただ単に大きいだけでなく、側面についていて、しかも突き出ています。形感覚はもちろんのこと、自分の周囲すべてが見通せる広い視野が得られ、獲物を探して捕らえるには非常に都合の良い目なのです。

           

           

          の独特の目も、トンボにとっては生きていくうえで大切な武器のようなものなのですね。

           

          また、トンボはこの二つの複眼のほかに三つの単眼を持っています。単眼の働きは「見る」ためではなく、「生物時計(体内時計)」を働かせるためについているようです。
          単眼は、周囲の明るさだけを感知して、明け方、日中、夕暮れという明るさの移り変わりを認識します。トンボだけでなく、昆虫はこのような小さな単眼をいくつか持っています。

           

           

          虫だけがそのような単眼を持っているのでしょうか?

           

          ヒトも含めた脊椎動物には、生物時計を働かせる役目の「第三の目」がないかというと、決してそうではありません。ヒトも第三の目の痕跡を持っていますし、脊椎動物の中には実際に第三の目を持っているものもいるのですよ。

           

          (原作:医学博士  武藤政春)

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            盲目で関ケ原に向かった大谷吉継

            • 2017.10.30 Monday
            • 15:06


            盲目で関ケ原に向かった大谷吉継

             

             

            ケ原の戦いは、今年映画にもなりましたが、西軍に大谷吉継という武将がいましたね。頭巾をかぶった異様な風体に驚きました。
             

            大谷吉継は九州大友家の家臣でしたが、大友家滅亡により流浪の身になり、やがて石田三成の推挙により秀吉に仕えるようになった武将です。のちに越前敦賀領主となりましたが、三十歳頃にハンセン氏病を病み、両眼を失明してしまったのです。

             

             

            は関ケ原の戦のときにはすでに視力を失っていたのですね。

             

            1600年の上杉征伐に家康が出陣する時、これに従軍するつもりで国を出た吉継は、石田三成から家康に対して戦いを挑むことを打ち明けられ、味方になってくれるように頼まれたのです。
            その時吉継は既に両眼とも見えなくなっていましたが、世間を見通す目は確かでした。三成が家康に歯向かっても勝目がないということは知っていたでしょう。それでも三成の軍に参加したのは、ひとえに三成に対する恩義からでした。

             

             

            臣秀吉の家臣に推挙してくれたことへの恩義ということでしょうか。

             

            こんなエピソードがあります。豊臣秀吉在世の頃、大阪城で茶会が開かれたときのことです。当時吉継はハンセン氏病を病んでいました。茶会では、秀吉がたてた茶を居並ぶ武将達が一口ずつ飲み回していましたが、吉継から茶碗が回ってくると、武将たちは飲むのをためらい、飲むしぐさだけして「結構な味でございます」などと言っては次へと回していました。しかし茶碗が三成のもとへと来たとき、三成は表情も変えずにゴクゴクとその茶を飲みほしてしまったといいます。
             

             

            成の人柄がしのばれますね。吉継はどれほどの思いでそれを見ていたことでしょう。

             

            この時の恩を吉継は終生忘れなかったといいます。そして関ケ原では、寝返り相次ぐ西軍の中にあって、最後まで戦い抜いたということです。

             

            (原作:医学博士  武藤政春)

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              多くの謎を持つカメ

              • 2017.10.20 Friday
              • 14:23

              多くの謎を持つカメ

               

               

              トウ先生、有名な「兎と亀」の昔話は随分と古くから語られてきたそうですね。
               

              そうですね。「兎と亀」の話はビザンチン文化圏で発祥し、その後アジア、アフリカ、アメリカへとひろまっていったそうです。カメといえば日本では「浦島伝説」も有名ですが、こちらは日本書紀に載っているほど古くから日本に伝わる昔話です。ところで、古代日本人の思考の中で、なぜカメと海中の楽園が関連付けられたのでしょう。

               

               

              えてみればそうですね。何か理由があるのでしょうか。

               

              海ガメの産卵では、ふ化した海ガメの子ども達は、誰に教えられたわけでもないのに一目散に海を目指して歩き始めます。一心不乱に海を目指す姿からは、海の中にはさぞ素晴らしいものが待っているに違いない、と思えてきます。きっと古代の人々にもそう思われたのでしょう。
              海ガメの子どもが海を目指して行けるのは、光の反射する海面の明るさと、地面の上の明るさのちがいを感知しているからという説が有力ですが、まだはっきりとはわかりません。

               

               

              ガメは産卵のときには生まれ故郷の浜に戻ってくるそうですね。大洋を大回遊しているというのに、何を頼りに故郷に戻ることが出来るのでしょう。

               

              臭いの物質を道しるべにしている、太陽をコンパスにして行動している、一定の水温の海域を泳ぐようにしているなど、さまざまな説があります。しかし、いずれもまだ十分な解答にはなっていません。 「兎と亀」の話のなかで「どんくさい」動物とされているように、カメは運動面でも感覚面でも鋭いところは何一つありません。その目は視神経乳頭耳側に円形中心野を持ってますが、中心窩までは分化していませんから、視力もとりわけよくはありません。眼球は結構動きますが、視界はそれほど広くはありません。カメにとって唯一の特技といえるのが、いざというときに、首と手足を甲羅の中に引っ込めて身を守れることです。
               

               

              「どんくさい」はずのカメが、どうやって大洋の大回遊を行い、生まれ故郷の浜に帰ってこられるのか、生まれたばかりの子ガメがなぜ一目散に海を目指していけるのか、まだ定説はないのですね。いずれはその謎を知りたいものです。

               

              (原作:医学博士  武藤政春)

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                「鼻で物を見る」犬

                • 2017.10.11 Wednesday
                • 14:23

                「鼻で物を見る」犬

                 

                 

                の前渋谷に行きましたが、ハチ公前の待ち合わせはすごい人混みでした。ハチ公像は昭和9年に建てられたそうですね。

                 

                忠犬ハチ公は日本人に長く愛されてきましたね。ただ、戦前の修身教育によって実際よりも美談に仕立てられたようではありますが。
                ところで、この話の主人公がイヌでなく、ネコだとしたら誰もこの話を信じることはなかったでしょうね。ネコはエサをもらうために媚びることはあっても、心から飼い主に服従することはありません。それに対し、本来群れをなして生活する動物であるイヌは、飼い主を群れの上位者とみなし、主人に忠義を尽くします。

                 

                 

                ちらも人と一緒に生活する動物でありながら、対照的ですね。

                 

                ネコとイヌは狩りの仕方にも相違点があります。どちらも狩りは夜行いますが、ネコは待ち伏せるハンターで、イヌは追いかけるハンターです。この違いは、感覚器官の鋭敏さの違いに関連します。
                ネコの目は網膜外層に反射層があるなど、暗闇でもよく見える工夫がいくつもあります。イヌの目は反射層の存在する領域はずっと狭く、暗闇での視力はネコの方がずっとよいと思われます。イヌはネコのように暗闇で獲物を見つけるのは困難でしょう。

                 

                 

                うなのですね。ではイヌは、狩りの時はどうするのですか?

                 

                イヌが持つ強力な武器は嗅覚です。「鼻で物を見る」といわれるイヌはヒトの百万倍以上の嗅覚を持っています。何キロメートルも離れた遠くの獲物を探知し、その臭いを道しるべに追いかけるのです。
                 

                 

                察犬など、イヌの嗅覚は人間の役にも立ってくれていますね。

                 

                イヌが警察犬として活躍する端緒をひらいたのは小説家のコナン・ドイルです。彼は著作「パスカヴィル家の犬」の中で殺人計画に犬の嗅覚を利用する方法を採り入れています。この小説がヒントとなって、犯罪ではなく犯罪捜査に犬を使うことが考えられ、スコットランドヤードに警察犬が登場するようになりました。そしてやがて世界中で、犯罪捜査にイヌが活躍するようになったのです。

                 

                (原作:医学博士  武藤政春)

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                  眼病に悩まされた藤原道長

                  • 2017.10.01 Sunday
                  • 10:41

                  眼病に悩まされた藤原道長

                   

                   

                  藤原道長といえば「この世をば我が世とぞ思ふ望月の〜」の歌で有名な平安時代の権力者ですが、実は糖尿病に苦しめられていたのを知っていますか?

                   

                   

                  りませんでした…そのようなことがわかるのですか?

                   

                  道長の日記『御堂関白記』や同時代の貴族の日記に、道長が昼夜の別なく水を欲していたという記載があり、道長は糖尿病だったに違いないと信じられています。
                  そして重い眼病にも悩まされていたようです。『御堂関白記』には「目が暗い。お祓いをしたが明るくならない」「二、三尺隔てた人の顔も見えない」など視力の低下を嘆く様子が記されています。おそらく糖尿病による白内障や網膜症だったのでしょうね。

                   

                   

                  華を極めた権力者も病には悩まされたということですか。

                   

                  当時、藤原一族には、糖尿病や眼病の者が数多くいたのですが、道長は、自分の眼病について「たたり」ではないかと考えていたようです。
                  道長というとエリートですんなり栄光の座についたように思われがちですが、彼は五男であり、兄弟との権力争いの果てにその座をもぎとった人物です。道長が確固たる権力者の地位についたのはかなり晩年のことであり、それまでに邪魔な身内をでっちあげの嫌疑で告発・左遷せしめたり、言うことをきかない三条天皇を退位に追い込んだりしてきました。

                   

                   

                  条天皇は「心にも あらで憂き世に ながらへば 恋しかるべき 夜半の月かな」という、世をはかなむ歌が有名な方ですね。

                   

                  三条天皇は40歳にして殆ど視力を失っていました。道長は自分の孫を皇位につけて自らは摂政になりたいと考え、三条天皇に対して「そんな目では天皇としての仕事に差し障りがある」といびり続けたようです。耐えきれなくなった三条天皇の退位で道長は念願を叶えたものの、今度は自分が眼病に悩まされるようになり、視力を失っていったのです。

                   

                   

                  果応報というか、道長が「たたり」と考えたのも無理からぬことですね。

                   

                  道長は、晩年に出家し、自ら建立した法成寺の阿弥陀堂に籠ってお経を読んで暮らしたといいます。最後には阿弥陀仏と自分の指を七色の糸で結び亡くなったそうですが、はたして極楽に行けたのか否かは知る由もないですね。

                   

                  (原作:医学博士  武藤政春)

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                    兼好法師の視力はどのくらい?

                    • 2017.09.17 Sunday
                    • 10:12

                    兼好法師の視力はどのくらい?

                     

                     

                    トウ先生、先日のように過去の偉人の目について考えていくのは面白いですね。日本の有名な文学者などはどうでしょうか。優れた書物を書き残しているのですから目も良かったのでしょうか。

                     

                    そうですね…では今回は兼好法師について考えてみましょう。「徒然草」が書かれたのは兼好法師が48歳か49歳の頃と考えられています。「徒然草」の七段で、長くても40歳前に死ぬのが見苦しくないものだ、と述べていますが、これを書いていた頃にはゆうに40歳を過ぎていたわけであり、最終的には70歳近くまで生きたわけです。
                    「徒然草」をひもといていくと、兼好の目がどんな目であったか何となく類推できますよ。

                     

                     

                    とえばどのようなものですか?

                     

                    十三段で「ひとり燈火のもとに文をひろげて、見ぬ世の人を友とするこそ、こよなう慰むわざなれ(ただ一人灯火のもとに書物を開いて昔の人を友とするのが格別心なごむことだ)」と述べています。50歳近くなって灯火のもとに読書を楽しめたということは、老眼鏡がなかった時代であることを考えると、彼は近視だったのではないかということを類推させます。

                     

                     

                    視ですか。書物を読むのも書くのも、さほど不自由がなかったのですね。

                     

                    四十三段では「東に向きて妻戸のよき程にあきたる、御簾の破れより見れば、かたち清げなる男の、年二十ばかりにて、うちとけたれど心にくくのどかなるさまして机の上に文をくりひろげてみゐたり」と記述しています。これなどはかなり遠方を詳しく描写していますので、強度近視であったとは思われないですね。
                    兼好はおそらくマイナス1〜2Dくらいの軽度近視だったのではないかと思われます。

                     

                     

                    視の度合いまで推し測ることができるのですね。ほかの文学者についても考えてみると面白そうです。ぜひまたお話を聞かせてください。

                     

                    (原作:医学博士  武藤政春)

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